「……そろそろ帰るか、ゆりさんが心配する」
とても低い声。落ち着いた、静かな声。あたしの好きなおじさんの声。
その声が、ヘンテコな毎日の終わりをいよいよ告げた。
つながっていた手がはずれる。おじさんがきびすを返した。そして静かに歩きだした。それでもあたしの足は動いてくれない。
「――ねえっ」
遠ざかる大きな背中に向かって声を出した。おじさんがゆったりとした動作でこっちを振り返る。
「神戸に行っても、あたしのこと、忘れないでね。一秒たりともだよっ」
おじさんはきょとんとして、それから眉を下げて笑った。
「逆プロポーズしてきた15歳も下の女、たぶん一瞬も頭から離れてくれねえよ」
奇遇だね。あたしも、そんな台詞をなんの気なしに言う15歳も上の男、たぶん一瞬も頭から離れてくれないと思ってる。一生。死ぬまで。きっとずっと、おじさんはあたしの特別なひとだよ。わかるんだ。
「ああ、そういや、ずっと言い忘れてたけど」
おじさんは思い出したように口を開いた。
「おまえのつくるメシ、いつもうまかったよ。料理向いてるんじゃねえの」
ずるいよ。いつもなんでもない顔で食べてたくせに。オイシイとか、一度だって言わなかったくせに。おじさんはずるい男だ。
「……ありがとう」
「俺のほうこそ、毎日メシつくってもらって感謝してるよ」
このアリガトウは、そういう意味じゃないんだけど。まあ、いいか。言わなくてもいいか。
いつの間にか白い煙は消えていて、頭上は満天の星空に変わっていた。おじさんの水色の車に乗って、うちに帰るまでのあいだ、窓から夜空をずっと眺めた。涙は出なかった。