「海辺の街か」


おじさんが唐突につぶやいた。ひとり言みたいに聞こえた。


「悪くねえのかもな」

「でしょう?」


あたしがそう言っても、なにも答えないで、おじさんはちょっと考えるような素振りをする。なんだか真剣な顔だった。なんだろう?

やがて、彼はシュークリームをいったんお皿に置くと、なにかを決めたような表情をこっちに向けた。


「実は、神戸に岡本先生と懇意の染色作家の先生がいるらしくてな、そこで勉強しねえかって言われたんだ、きょう」


神戸って、兵庫の? 兵庫といえば関西のいちばん西にある県。うんと遠いところだ。ここからだと新幹線でも数時間かかるような場所。


「けっこう前向きに考えてる」

「え……」

「おまえも出ていくしちょうどいいんじゃねえかと思って」


なにを言われているのかぜんぜんわからない。

どろり、カスタードクリームが手の上に落ちる。おじさんがあきれたように笑って、なにしてんだってティッシュで拭きとってくれたけど、正直それどころじゃなかった。

おじさんが遠いところへ行ってしまうかもしれない。

頭のなかはもうそのことでいっぱいだ。


「俺はいままで、ぜんぜんまじめに染めものに取り組んでなかったって、あのばあさんと話してて思った。いろいろ言われたあと、最後に『もっといろんなものを見るべきだ』って」


おじさんはかまわず続ける。


「環境をがらりと変えるのはひとつの手かもしれねえなって思った。生まれたときからずっとこの街にいるし、旅行とかもほとんどしてこなかったし、俺は圧倒的に経験が足りねえんだって、この32年ではじめて思ったよ」


おじさんみたいに大人でも、経験が足りないとか、そんなふうに思ったりするんだ。

人生はコワイな。

きっと死ぬまで人は完全に満足することはなくて、尽きることのない向上心を持っているんだと思う。人によってかたちは違うんだろうけど、みんな持っていて、それがなくなったとき、人は死ぬんだと思う。

おじさんとか、真鍋さんとか、岡本さんとか、おかーさんとか、周りの大人を見ていると、そう思う。