病院の駐車場から屋内に入るまで、なぜか相合い傘。あたしが傘を忘れたせい。

黒くて大きなおじさんの傘は、ふたりぶんの体くらいすっかり包んでくれていると思っていたけど、おじさんの右肩はびしょびしょに濡れていた。グレーの麻っぽいシャツが右半分だけ真っ黒になってしまっている。

あたしはどこも濡れてなかった。おじさんが傘をこっちに傾けてくれてたんだ。

おじさんは、そういう男だ。


「どこにいるかわかってんのか?」

「うん。508号室だって電話で言ってた」

「そうか……。病室に案内されてるってことは、とりあえずは大丈夫なのかもしれねえな」


おじさんが言う。安心させようとしてくれてるんだと思う。

隣にある腕を掴みたかった。でも直接その肌に触れるのはなんだか気が引けて、やっぱりあたしはわき腹の布を掴むだけ。


どうしてこうも静かなんだろう。

音といえば、機械が動いているのとか、重たいものを運んでいるのとか、子どもが泣いているのとか、そんなのばっかり。

居心地のいい静けさとは真逆な、ずんと重たい沈黙が、建物のなかをぐるぐるまわっているみたい。


どこを歩いていても薬品のにおいが鼻をつく。イヤなにおい。おじさんのアトリエとはぜんぜん違う、つんとくるキツさだ。

点滴をしながら鼻から管を通している少年や、車椅子のおばあちゃんとすれ違うたび、なんとなく目を背けたくなった。


体中にまとわりつくのはどれも負の空気だよ。五感に飛びこんでくるのはこわいものばかり。こんなところ、ひとりではとても無理だった。


ダメだ、きつい。頭ぐらぐらする。足元もふわふわしてきた。


「祈? 大丈夫か、顔色わりいぞ」


いまにも手放しかけていた意識を、おじさんの低い声がすんでのところでつかまえてくれる。


「うん……ごめん。こんな大きい病院来るの、はじめてで」


本当はそれだけじゃないんだけど、言わなくてもいい気がしたから口にはしなかった。

それに、このどうしようもない不安と恐怖を言ってしまったとたん、感情がぼこぼこと流れ出てきそうでこわかったんだ。