……2011年?
待て、待て待て待て。
今は1996年だろ?
なんで2011年表記?
誤字表記なんじゃねえの、これ。
それとも先取り?
だったら、先取りし過ぎだろ。
気が早いって。
ぶわっと嫌な冷汗が出た俺は誤字表記だと言い聞かせて、ポスターから目を背けると無理やり歩みを再開。
だけど俺の心臓は悲鳴を上げているようにドッドッドと鼓動を打っている。
違う、あれは誤字表記なんだ。
そうだ、そうに違いないんだ(だったら、この街並みの変わりようは一体?)。
急に人肌が恋しくなった。
誰でも良い。
俺の見知った人物に会いたい。
家に帰りたいけど、家は怖いから、家族以外の誰かに会いたい。
喧嘩しちまったけど遠藤の住むマンションに行こうか。
不機嫌極まりないであろうあいつを一目、口を利いてくれなくても一目、見知った人物に会えば気が落ち着く気がした。
目的が固まった俺は方向転換して遠藤のマンションを目指す。
あいつに会って気を落ち着けよう、見知った人物に会えばきっと…、でももし、街並みと同じように見知った人物達も変わっていたら?
大きな畏怖の念を抱いた。
やっぱりやめてしまおうか、俺は立ち止まって早々目的変更を考える。
結局どうしようもできなくて、俺は遅いおそい、それこそナメクジ並みの歩調で遠藤の住むマンションに向かうことにした。
他に解決策も思い浮かばなかったから。
幾つ目かの横断歩道を渡って、歩道に上がった俺は重々しく溜息をつく。
悪い夢でも見てるのかなぁ…俺。
と、俺の腕が後ろにグイッと引かれた。
零れんばかりに目を見開き、首が寝違える勢いで振り返る。
そこには呼吸を乱した女性が俺の腕を掴んでいた。
目分量から読んで二十代の女性だろうか?
おっかない顔で俺を見据えてくる女性に、なんとなく懐かしさを感じつつ俺は逃げ腰。
誰、なに、俺になんか用?
これ以上、混乱に陥れないでくれよ。
マジマジ俺を観察してくる女性は身形、顔、そして瞳の順に視線を飛ばしてくる。
その視線に堪えられなくなった俺は質問した。
「あの、お姉さん。どっかで俺と会ったことある?」
見れば見るほど懐かしい…、いや重なる面影。
そうか、この姉さんは秋本に似てるんだ。
秋本を思い出すと失恋の痛みが胸を刺すけど、今はそんなことどうでもいい。
姉さんはちっとも反応してくれない。
なんだよ、俺を捕まえたの、そっちなのに。
居心地が悪くなった俺は誤魔化すように街並みに目を向けて、腹の虫を鳴かせて、空いた手で鼻の頭を掻く。
「君、秋本桃香って知ってる?」
ふと飛ばされた質問。
俺は知った名前を耳にして希望を見出したような気がした。
知っているようで知らない街を独りでうろつきまくっていたから、多少ならず不安があったんだ。
でも今、この姉さんは俺の知っている名前を口にした。
それだけで大きな安心感が俺を包み込む。
あ、そうだ、この人伝いに秋本に会おう。
失恋なんてこの際、今は置いておいてクラスメートに会おう。
「秋本桃香は俺のクラスメートだよ。お姉さん、あいつのいとこ? すっごく似てるけど」
そしたら姉さん、くしゃくしゃに顔を歪めて俺を抱き締めた。
街中なのに人目も気にせず、両膝を折って、痛いほど俺を抱擁したんだ。
なんでこんなことされるか分からなかったけど、相手の正体を知った途端、俺は目の前が真っ暗になった。
だって、目前の姉さんが秋本張本人だったのだから―――…。
* * *
スンスン、スンスン、洟を啜る音が車内に響き渡る。
犯人は運転手。
数分前まで俺をキツク抱擁していた“秋本桃香”と名乗った姉さんだった。
ハンドバッグからポケットティッシュを取り出して目元にそれを当てている。
それが終わると、コンパクトを取り出して化粧の確認。
薄暗い車内で確認しても、そんなに確認できないだろうに「マスカラが落ちたかも」目のまわりが黒ずんでいないかどうか仕切りに気にしている。
助手席に座る俺は膝に乗せた通学鞄の重みを感じつつ、茫然と車窓から景色を眺めていた。
俺の知るようで知らない街並みは色とりどりの光で彩られている。
俺の知る街以上に鮮やかでギラギラと着飾っているもんだから、なんだかケバイなぁっと思ったり思わなかったり。
はぁ…、小さな吐息を漏らして俺は肩を落とす。
成り行きで姉さんの車に乗り込んじまったけど、なんで俺、車に乗っちまったんだろう。
家に帰らないといけないのに、なんで俺、姉さんの車の助手席に腰を下ろしているんだろう。
俺は今、一体何処にいるんだろう。
現実逃避を起こしている俺は、鼻柱を擦り、てっぺんをポリポリと掻いた。
こんな時でも腹の虫が空腹を訴えてくるもんだから、俺って意外と神経が図太いのかも。腹減ったな。
「ねえ、坂本、あんた坂本健よね?」
静まり返っている車内の空気を裂いたのは姉さんだった。
今更な質問だよな、それ。
人を散々抱き締めておいて。
俺は力なく相手に視線を向けてうなずく。
「ほんとに?」
念を押して聞く姉さんにもう一度頷いてみせ、俺は膝に置いている通学鞄に目を落とした。
で、おもむろにチャックを開けて内ポケットから生徒手帳を取り出す。
それを無言で差し出すと、姉さんは確かめるように表紙を熟視。
じわっと目が潤んでいる。
中身を開いてパラパラと捲ってるけど、中は生徒会規約や校則、校歌、んでもって白紙ページくらいしか載ってないんだけど。
姉さんは満足したのか生徒手帳を返してくる。受け取った俺は、意を決し怖々と口を開いた。
「お姉さんは…、秋本なの?」
間髪容れず頷く姉さんは、「そうよ」秋本桃香よ、と返答。
信じられない気持ちで一杯になった。
だって俺の知る秋本桃香は15で同級生なのに。中学生なのに。
「ちなみに…、歳、聞いていい?」
すると秋本はものすっごいヤな顔を作った。
ナニ、俺、なんか悪いこと聞いたか?
たっぷり間を置いて「30」と、姉さんからお返事を頂く。
俺は思わず素っ頓狂な声を上げて「おばちゃんじゃん!」相手を凝視。
頭部に拳骨を貰ったのはこの直後だった。
「イッテェー!」痛みに悲鳴を上げると、
「デリカシーのないところは坂本そのものね」
心外だと姉さんは腕を組んだ。
なんでだよ、中坊からしてみれば立派におばちゃんじゃんかよ。
だって二倍も歳の差があるんだぞ。
二倍、そう二倍も。
……二倍も。
頭を擦っていた俺の手は自然と膝へ。
そのままズボンを握り締める。
皺が残るほど強く握り締める。
やっぱり信じられない…、姉さんが秋本なんて、絶対に。
「今日、俺っ…、学校で秋本におはようって挨拶したんだ。あいつ、素っ気無く挨拶を返してきたんだぞっ…、ちゃんとした15歳だった。同級生だった。
なのに、なんで数時間で30のおばちゃんになっちまうんだよ。意味分かんねーよ」
今度は拳骨が飛んでこなかった。
それだけ俺が情けない顔をしているからかもしれない。
現実の辛酸に溺れそうでついつい、「秋本はっ」俺と同級生なんだよ、声音を鋭くして気丈を保つ。保とうとした。
でも保てなかった。
言葉にすればするほど、不安・混乱・絶望が湧き水のように溢れ出てくる。
「やっぱ俺」家に帰る、鞄を持ってドアに手を掛けた。
家に帰ったら家族がいる。
そうに違いない。
こんな現実、信じられるわけない。
「ちょっと待って、坂本!」
腕を掴まれて制される。
放してくれよっ、俺は帰るんだと訴えれば、
「駄目よ…」
あんたが今帰ったら、御家族はパニックもパニックになる、姉さんは落ち着くよう宥めてきた。
嫌だ帰るんだ、腕を振り払おうと躍起になった俺の行動がピタッと静止してしまうのは三秒後。
息を呑んで俺は姉さんを凝視。
「もう一度…言って?」
声音を震わせて、相手に掛けられた台詞を繰り返すよう頼む。
姉さんはくしゃくしゃな顔を作って告げた。
「15年前、坂本は行方不明になってるの。あんたっ、マスコミに騒がれるほどの失踪事件を起こしてるのよ」
失 踪 事 件 ?
持っていた鞄を座席下に落とし、俺は目を白黒させて座席に戻る。
そして脱力。
目の前が真っ暗どころか、頭が真っ白だ。
俺が失踪事件を起こした? 15年も前に?
俺から見た15年前ってゼロ歳だぞゼロ。
でも姉さんは自分の歳を三十路だって答えた。
ということは姉さんから見た15年前は、俺と同じ15歳というわけで。
同年というわけで。
辻褄は合うというわけで。
……合わないだろ。
だって向こうが成長したなら、俺も15年分成長しないとおかしいじゃないか。
話が合わないじゃないか。
時系列が狂うだろ。
呼吸さえも忘れた。
「失踪? そんな馬鹿な、俺、近所でちょっと昼寝していただけなのに。昼寝で失踪事件なんてお笑い種じゃないか」
もうなにがなんだか分からなくなった俺は、取り敢えず顔をくしゃくしゃにして泣き笑い。
人は混乱の限界を超えちまうと笑えてくるらしい。
「なんだよこれ」
スニーカーを脱いで、俺は膝を抱えた。
そのまま項垂れて、そこに顔を埋める。
悪夢だ、これは厄日の延長戦なんだ。
夢なら覚めてくれ、今すぐに、さあ今すぐに!
前髪を掴んで引っ張ってみる。
頭皮に痛みが走るだけで、一向に目が覚めそうにない。困った。どうやったら目が覚めるんだろう。
「―――…坂本、シートベルト締めて。なんか食べて落ち着きましょう」
優しい声音、並行して撫でられる頭。
うつらうつら顔を上げれば、
「お互いに混乱してるみたいだから」
温かいものでも食べて、まずは落ち着きましょう。お腹減ったでしょう?
姉さんがニコッと柔和に微笑んでくる。
何も考えられなくなった俺は姉さんの案に乗ることにした。
指摘されたとおり、腹、減ってるし。
うんっと頷いて、俺は足を座席下へ。
スニーカーに爪先を突っ込んで、転がっていた鞄を俺の膝に乗せた。
「こら。シートベルト」
注意を促され、俺はゆっくりとした動作でシートベルトを締める。
横目で確認した姉さんは、「よし」気分を入れ換えるようにエンジンを掛けた。
ついでにテンションを上げようとラジオを点けてくれる。
けど。
『2011年×月×日、ナイトタイムコーナーにようこそ! これを聴いてくれているリスナーの皆さん、グッドイブニング!
気分もアゲアゲに早速大人気のコーナー、リクエストミュージックにうつってみようか!』
……、2011年。
やっぱり今は2011年なんだ。
民間ラジオ番組かもしれないけど、ラジオ番組がリスナーに日時を伝えたんだ。間違いないんだろうな。
自嘲を零す俺に、「こんの」KYラジオ番組、テンションアゲアゲにさせるような発言しなさいよ! 姉さんはガミガミと文句垂れてボタンを押した。
まったくもってありえない、音楽でも流すか、盛大な独り言を口にする姉さんを流し目にして、俺は素朴な質問を口にする。
「なあ、ケーワイってなんだ?」
聞きなれない単語に俺は瞬きした。
「英語の一種か?」真面目に質問した筈なのに、向こうは瞠目、次いで笑声を上げた。
……超失礼な態度なんだけど。
眉根を寄せる俺の頭をわっしゃわっしゃと撫でた姉さんは、
「そうか。15年前にはない単語だっけ」
なんていったって若者言葉だもんね、と面白おかしそうに微笑してくる。
なんかわっかんねぇけど、羞恥心が込み上げてくるぞ。
結局意味は何なんだよ、俺は不貞腐れてそっぽを向いた。
ごめんごめん、姉さんは俺の態度に片手を出して謝罪。意味を教えてくれた。
「空気を読め。略してKYよ。各々頭文字を取ってKYって言ってるの」
「どういう時に使うんだ?」
「周囲の状況にふさわしい言動ができない奴を指すのよ。例えば―…っ、あんのクソ教頭とかっ、剥げ校長とかっ、親馬鹿過ぎるご両親様とか!」
ハンドルを握り締めて青筋を立てる姉さんは、苛々すると口元を引き攣らせた。
あんま教師を舐めるんじゃないわよ、独り言が愚痴に変わったのも時間の問題。ハンドルを叩いて、ブツクサと悪口(あっこう)を吐き出している。
姉さん、教師なのか?
それにしちゃあ、らしくない発言ばっかりしてるけど(秋本「いっぺん地獄に落としたいわよ。あいつ等っ!」)。
でも、なんだかその姿を見てると俺の知っている秋本と面影が重なった。
いつも俺に悪態をつく秋本と姿が薄っすらぼんやり重なる。
そう思うと、少しだけ安堵した。
ぎこちなく頬を崩す俺に気付いたのか、姉さんは咳払いを一つ。