その夕刻、朔夜は綾を連れて離宮の裏手の小さな祠へ向かった。
竹林のなかに苔むした石がひとつだけ立っている。焼け跡から、ようやく見つけ出した母の形見を納めた場所だと朔夜は言った。
「母上。……ご報告に参りました」
朔夜は石の前に膝をつき静かに手を合わせた。綾も隣に膝をつく。
「父上にお会いしました。私を覚えていてくださった。母上のことも」
風が竹の葉を鳴らした。
「それから、この方が綾です。私を生かしてくださった人です」
綾は慌てて頭を下げた。
「初めまして……あの、朔夜さまにはいつも、助けられてばかりで」
「いいえ」
朔夜が小さく首を振った。
「母上。私は、この人に出会って初めて、生きていてよいと思えたのです」
綾は、はっとして朔夜の横顔を見た。彼は、石を見つめたまま静かに続けた。
「母上を失い、多くの人を焼いた私が幸せになってよいのかと、ずっと思っておりました。……でも、この人が笑ってくれるのなら」
言葉が途切れた。綾は、そっと朔夜の手を握った。
「あなたが、幸せになってください。私が隣でそうさせますから」
朔夜は、驚いたように綾を見てそれから目を細めて頷いた。
祠の前に、綾は持ってきた白檀の香を静かに焚いた。細い煙が竹の葉のあいだをゆっくりと立ち上っていった。
その夜、離宮の池のほとりで朔夜は綾の前に膝をついた。月は細く水面に揺れている。
「綾」
真剣な声だった。
「私の妻になってください。皇子としての命ではなく、朔夜としての願いです」
綾は息を吸い、そっと微笑んだ。思い出していた。家人の姿で膝をついた彼のあの最初の言葉を。誰かに与えられた場所ではなく、初めて自分の手で選べる道が、いま目の前にある。
「あなたが家人だったころから、私はあなたに守られていました」
綾は、朔夜の手を取った。
「今度は私が、あなたの隣を選びます」
朔夜が目を見開いた。それから、こらえきれぬように綾を強く抱きしめた。
「……ありがとう」
「泣いているのですか」
「泣いていません」
「では、泣いているのは私のほうですね」
二人は、笑いながら涙を流した。


