退出の折、長い廊で小さな声に呼び止められた。
東宮だった。まだ十ばかりの利発そうな少年が緊張した面持ちで立っている。傍らの女官が慌てて止めようとするのを彼は手で制した。
「兄上」
朔夜は足を止めた。
「母上のことを、私は何も存じませんでした。ですが、母上がなさったことは聞きました」
少年は、唇を噛んだ。
「兄上は、母上をお許しになりますか」
朔夜は、少年の前に膝をつき、目の高さを合わせた。
「許す、許さぬを、私が申せる立場ではありません。……ただ、あなたのお母上は深く悲しんでおられただけです。それだけは、忘れないでいただきたい」
「月の力は……恐ろしいものですか」
「はい。恐ろしいものです」
朔夜は、隠さずに答えた。
「使い方を誤れば人を焼きます。私は、それを身をもって知っております……ですが」
朔夜は、かすかに笑った。
「誰かを守るためにも、使えます。どう使うかを私は、これから生涯かけて示してまいります」
少年は、しばらく朔夜を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
それから綾に向き直り、ぎこちなく頭を下げた。綾も深く一礼を返した。


