綾は深く一礼した。
「藤原の名は、お返しいたします。父上、どうかお健やかに」
兼雅は何も言えなかった。
「薬湯……」
掠れた声が、その口から漏れた。あの夜、咳を鎮めてくれた誰が煎じたとも知れぬ薬湯のほろ苦い温かさ。
それが誰の手によるものだったのかを、彼はいま初めて悟ったように顔を歪めた。
けれど綾は、振り返らなかった。
帝は、しばらくそんな綾を見つめていた。それから朔夜に静かに問うた。
「朔夜。そなたを皇子として迎えたい。東宮の座を争う資格も、返そう」
「ありがたき仰せにございます」
朔夜は頭を下げ、はっきりと答えた。
「ですが、私が望むのは玉座ではございません。この方とともに、静かに生きる場所を頂戴したく存じます」
「……そうか」
帝はゆっくりと頷いた。その口元に疲れたような、けれど確かな微笑が浮かんだ。
「そなたの母も、そのような目をしておった」


