朔夜は、それを見つめたまま動かなかった。
ほんの一瞬。瞬きほどの間、水のように静かだった面差しが揺らいだ。何かに胸を貫かれたような、こらえきれぬものが、その瞳をよぎる。けれど綾がまばたきをすると、それはもう跡形もなく消えていた。
「……珍しい勾玉でございますね」
「幼いころ、知らない男の子にもらったのです」
言ってから、綾は自分の口の軽さに驚いた。誰にも話したことのない話だった。
「顔も、名前も、もうよく覚えておりません。ただ、これだけが残って。おかしいでしょう。それきり会ってもいない人の形見を、ずっと持っているなんて」
朔夜は問い返さなかった。聞きたいことが山ほどあるような気配を、彼は静かに飲み込んだように見えた。
そして勾玉を綾の掌にそっと戻し、その指を包むように、ほんのわずか触れて離れた。
「大切になさってください」
その声が、ひどく優しかった。
綾は勾玉を握りしめたまま、その言葉の意味を、しばらく考えていた。
部屋へ戻ると、菖蒲が、待ちかねたように飛びついてきた。
「姫様、姫様! 新しい家人の方、ご覧になりました? あのお顔! 邸中の女房が、御簾の陰から覗いておりましたのよ」
「そう。気づかなかったわ」
「もう、姫様ったら」
菖蒲は頬を膨らませ、それからふと真顔になった。
「でも、変ですわ。殿が、姫様のためにわざわざ家人を付けるなんて。何か裏があるに違いありません。あの方、本当に信用できるのでしょうか」
「見張りでしょう。父上のお考えは、いつもそういうものよ」
「……そう、でしょうか」
菖蒲は、首を傾げた。
「でも、さっき、庭でお見かけしたのです。あの方、姫様の前をお歩きになるとき、いつも、日の当たる側を、ご自分が歩いておられました。姫様が、日陰を歩けるように」
綾は、返事ができなかった。
言われてみれば、そうだったかもしれない。気づかなかった。気づかせぬようにしていたのかもしれない。
その夜、綾はなかなか寝付けなかった。


