「この呪いが、与えられたものを糧にするのなら――差し上げます。私が父から与えられたものすべて」
胸に手を当て、息を吸う。
「藤原家の姫という身分を。この名を。あなたが奪おうとした、私の魂の器をあなたに返します。そのかわり」
綾は朔夜の顔を見た。彼が、必死に首を振っている。
「あなたを、返してください」
その瞬間、二つの勾玉が眩い光を放った。
白い光が闇を裂く。それは、何かを焼き払う光ではなく震えるものを包み込むような、静かな光だった。月の勾玉がぴしり、と音を立て砕け散った。黒い蔓が悲鳴のような音を上げて消えていく。
絡みついていたものが、ほどけた。綾の痣が、灰のように崩れ肌から消えていった。
空を覆っていた影が、ゆっくりと退いていく。月が再び姿を現した。
女御は、扇を取り落とし膝から崩れ落ちた。陰陽師が慌てて彼女を支える。
「……兄上」
女御は、両手で顔を覆った。
「あの夜から私は……ずっと炎のなかにいたのですね」
その呟きは、月光のなかに、消えていった。
夜明け前、静けさを取り戻した離宮の縁で綾は朔夜の肩に頭を預けていた。砕けた勾玉の欠片が、手のなかで、淡く光っている。
そこへ鷹臣が駆け足で戻ってきた。表情には驚きがあった。
「姫……いえ綾殿。宮中の記録を確かめてまいりましたが」
彼は少し言いよどんだ。
「藤原家の系図からも、後宮の女房名簿からも、あなたのお名前が消えておりました」
綾は目を瞬いた。
それからゆっくりと、笑った。
「そう。私は、ただの綾になったのですね」
朔夜が、隣で綾の手を優しく握った。
東の空が白んでいく。
与えられた名を失った朝だった。けれどそれは、初めて自分のものになった朝でもあった。


