月影の皇子は女房腹の姫を選ぶ



 月蝕の夜。奥庭の池の面に、満月が浮かんでいる。白い装束の朔夜が、池のほとりに立った。傍らには綾がいる。二つの半月の勾玉を手に二人は静かに向かい合っていた。
 池の四隅には、綾が千草とともに調えた鎮めの香が細く煙を立てている。
 空が暗くなり始めた。月の縁に、黒い影が触れる。ゆっくり、ゆっくりと月が欠けていく。


「来ましたね」


 凛とした声が池の向こうから響いた。
 現れたのは、幾重もの装束をまとった気品ある女人だった。

 藤壺の女御。背後には、陰陽師とあの夜の三人の侍女が控えている。


「月の血を引く皇子が生きておられたとは。……皇子、あなたはこの国にとって禍でございます」


 その声には、憎しみではなく悲壮なまでの確信があった。


「月神の血を持つ者が帝位に就けば、妖が都を支配する。私は、この国を守りたいのです。我が子のためだけではない……都に、これ以上血の雨を降らせぬために」


「あの夜、離宮を焼いた月の炎を私は忘れません。私の兄は、その炎のなかで灰になりました」


 女御の声が初めてかすかに震えた。
 朔夜は静かに顔を上げた。


「存じております。あなたの兄君を焼いたのはこの私です」


 綾は朔夜の横顔を見た。彼があの夜の重さを少しも隠さずに背負っているのがわかった。


「その罪から、私は一日たりとも逃げたことはございません。……ですが、女御様。私の力はもはや誰かを焼くためには使いません」

「その言葉を誰が信じるというのです」


 女御が、扇で合図を送る。陰陽師が印を結び、低く呪を唱え始めた。
 その前にひとつの影が立ちはだかった。


「若君の邪魔は、させぬ」

 鷹臣だった。刀を抜き、陰陽師と侍女たちのあいだに立つ。その背中は少しも揺らがなかった。


「女御様」


 綾は思わず口を開いた。


「あなたさまは、ご自分の恐れを正義だと思っておられるのでしょう」


 女御は、扇の陰で目を細めた。


「与えられて生きてきた娘の魂は、器にするにたやすいこと。あなたのような者は誰のものにもなれず、ただ、選ばれるのを待つだけ……そのことをあなたが一番ご存じでしょう?」


 綾の胸に鋭い痛みが走った。
 そのとき、月が完全に陰った。
 闇のなかで、綾の鎖骨の痣が禍々しい光を放った。黒い蔓が地面から這い上がり、朔夜の足に腕に絡みついていく。


「くっ……」


 朔夜が膝をついた。彼の身体から、月光のような青白い光が糸のように引き出されていく。


「朔夜さまっ」

「来る、な……あなたまで飲まれる……」


 綾は走った。黒い蔓が綾の腕にも絡みつく。冷たく胸の奥を握りつぶされるような痛み。意識が遠のく。
 黒い蔓のあいだからあの声が聞こえた。


 ――月を……奪え……


 けれど、その奥にもうひとつ別の声が重なっていた。


 ――こわい。こわい。もう、誰も、失いたくない。


 綾は目を見開いた。
 この呪いの根にあるのは憎しみではない。小夜の枕元で震えていた、あの小さな妖と同じもの。恐れだ。

 池の四隅の香が煙を揺らし、蔓の動きをわずかに鈍らせた。綾は絡まれた身体を引きずるようにして朔夜のもとへ辿り着いた。
 そして、池の向こうの女御を見た。


「あなたはずっと、こわかったのですね。お兄様を失ったあの夜から」


 女御の顔が、凍りついた。扇を握る手が小さく震えている。けれど、呪いは止まらなかった。恐れは恐れのまま、いっそう強く、二人を締め上げた。

 ――与えられた魂。

 女御の言葉が、頭のなかで響いた。
 そうだ。私は、与えられてきた。姫という名も後ろ盾のない身分も行く先のすべても。だから器にされやすい。
 けれど。
 綾は、朔夜の手を強く握った。


「私は与えられるだけの者では、もうありません」


 声は震えていなかった。