月影の皇子は女房腹の姫を選ぶ



 月蝕の前夜。空には、満ちた月が、皓々と冴えていた。
 綾は離宮の奥、月光の差し込む一室で朔夜と向かい合っていた。明日の儀式の支度は整い、鷹臣も下がっている。静かな夜だった。
 夕餉には朔夜の握り飯が並んでいた。


「上達しておりません」

「いいえ、少しだけ」

「……少し、でございますか」


 朔夜が小さく落ち込んでみせるので、綾は声を立てて笑ってしまった。
 この人と、こうして笑っていたいと思った。明日がどんな日になろうとも。


「明日が最後の夜になるやもしれません」


 朔夜が静かに言った。


「ですが、今夜も私はあなたに触れません」


 綾の胸がかすかに軋んだ。


「あなたの父君が私に告げた言葉を、私は忘れておりません。あなたが望まぬことを、私があなたに強いるようなことはあってはならない……あなたが望まぬ限り私は決して」


 それはこの数日、彼が繰り返し示してくれた誠実さだった。傷つけまいとする人の、痛いほどの優しさだった。
 だから綾は、手を伸ばした。朔夜の袖を、そっとつかむ。指先が震えていた。


「……綾」

「私は」


 声が掠れた。けれど今度は逃げなかった。


「朔夜さまのそばにいたい」


 月光が、二人の間を静かに照らす。


「姫として与えられるのではなく綾として、あなたを選びたい」


 生まれて初めて自分の望みを自分の声で言葉にした。朔夜の瞳が大きく揺れた。それから、ゆっくりと深く光がこぼれるように彼は微笑んだ。


「……本当によろしいのですか」

「はい。私がそう望んでいます」


 朔夜の指が綾の頬に触れた。触れられる前からその熱を感じていた気がした。彼は、確かめるように一度だけ額を綾の額に寄せた。
 そして唇が重なった。優しい口づけだった。十年分の、言葉にできなかったものがそっと預けられるような。綾もまた震える腕を彼の首に回した。

 月が雲に隠れ、また現れる。
 几帳の向こうで衣が擦れる音がした。ほどかれた髪が、月光を含んで肩から滑り落ちる。黒方の香が二人のあいだで淡く混ざり合い、指先が何度も名を呼ぶようにお互いをたどった。
 夜は静かに深まっていった。