月影の皇子は女房腹の姫を選ぶ


 その翌日から、綾は離宮の厨にこもって香の調合に没頭した。薬房から、千草が薬草の籠を抱えて駆けつけてくれた。
 白檀の粉に月見草の根。綾が匙を動かすのを千草は老いた目でじっと見守っていた。


「呪いを焼き払う香なら私にも作れます。けれど、あなたが作ろうとしているのはそうではないのでしょう」

「はい。追い払うのではなく鎮めたいのです。声の主が、少しでも安心できるように」


 千草は、満足げに頷いた。


「香は、妖を追い払うためだけのものではありません。帰る場所を示すものでもある。……小夜の部屋で、あなたがなさったことは、聞いております」

「千草さま」

「忘れてはなりませんよ。相手が誰であれ、恐れているものには行き場が要るのです」


 綾は、その言葉を胸に刻みながら白檀の粉をそっと練り蜜に合わせた。
 夜更けに香が調ったとき千草は、小さく笑った。


「私は、あなたに教えることがなくなりました」

「まだ、たくさんございます」

「いいえ。ここから先はあなたの香です」
   


 夜更け、香の火を落として厨を出た綾は縁で待っていた鷹臣に呼び止められた。


「少し、よろしいでしょうか」


 鷹臣は、しばらく黙って庭を眺めていたがやがて、低い声で言った。


「私は、あなたを疑っておりました」

「存じております」

「若君を危険に晒すものだと……その考えは、いまも完全には消えておりません」


 率直な人だ、と綾は思った。


「ですが」


 鷹臣は庭の月を見上げた。


「若君は、母君を亡くされてから十年、ただ、あなたを探すためだけに生きてこられた。剣も学問も和歌もすべて、いつかあなたを迎えに行ったときに恥じぬ男でいるためだと」


 綾は、息を止めた。


「皇子として帝に名乗り出る機会は、何度もございました。そのたびに若君は、首を振られた。あの人を見つけるまでは、何も名乗らぬと」

「……」

「あなたが若君の弱みだと、女御様は仰いました。私も、そう思っておりました。ですが」


 鷹臣は、綾に向き直り深く頭を下げた。


「今は、それを若君の強さだと思っております。……お願いです。あの方をひとりにしないでください」


 綾は、静かに首を振った。
「はい。鷹臣様。私が、隣にいますから」


 鷹臣は顔を上げ、初めて、ほんのわずかに、笑った。