風が吹き、綾の髪が乱れた。先ほどの騒ぎで勾玉を通した紐は切れかけ、髪に絡まっている。
「失礼を」
朔夜が、静かに手を伸ばした。
自分の袖から、細い絹の組紐を抜き取り綾の髪に絡んだ勾玉を、そっとほどく。それから、その紐で勾玉を結い直した髪の根元に丁寧に結びつけた。指先が、綾の首筋を掠める。息が止まるほど、優しい手つきだった。
「これは」
囁くような声が、耳のすぐそばで落ちた。
「綾を見失わぬための、半分だった」
その呼びかけが、家人の言葉ではなく、ひとりの男の言葉であることに綾は気づいた。朔夜も自分の口から出た言葉に気づいたのだろう。耳の端がわずかに赤くなる。
「……失礼。無礼を」
「いいえ」
綾は、小さく首を振った。
「もう一度、呼んでください」
朔夜は、驚いたように目を見開き、それからゆっくりと微笑んだ。
「綾」
低く、優しく、噛みしめるように。
「今はもう、手放しません」
その言葉が、深い水底へ沈んでいく石のように綾の胸へ落ちた。
「……怖くは、ありませんか」
朔夜が、ふいに、低く尋ねた。
「私の力が。私が焼いてしまった、人々のことが」
綾は、少し考えてから首を振った。
「怖くないと言えば、嘘になります。でも、あなたが、その力をいちばん怖がっていることも、わかりますから」
朔夜は、目を見開いた。
「あなたが私に触れなかったのは、私の意思のためだけではなかったのでしょう。もし、力が乱れたらと」
「……はい」
朔夜は、観念したように微かに笑った。
「あなたの前では、いつも心を静めておりました。乱れれば、月が応えてしまうので」
綾は、そっと、朔夜の手を取った。
「では、私がそばにいます。あなたが乱れそうなときは、私がその手を握っていますから」


