朔夜は、深く頭を下げた。けれど、それは許しを乞う仕草ではなかった。
彼は顔を上げ、まっすぐに綾を見た。
「皇子の身分で、あなたを囲いたくなかったのです」
その目に、迷いはなかった。
「あなたは、ずっと、誰かに決められた場所で生きてこられた。もし私が皇子だと名乗れば、あなたは、断れなくなる。感謝や恩や、身分の重さで、心にもない道を選ばされてしまうかもしれない。……それだけは、どうしてもできなかった」
朔夜の声が、かすかに揺れた。
「家人であれば、あなたの望まぬ道を強いることなく、ただ、お傍にいられました。あなたが笑うのを見ていることができました」
綾は、言葉を失った。殿の前に膝をついた、あの背中。与えられる品ではないと言い切った、あの声。すべてが、ひとつの糸につながっていく。
この人は、ずっと私が私でいられるように、傍にいてくれたのだ。
「……いつから、私を、見ていたのですか」
涙声で尋ねると、朔夜は、少しだけ、ためらった。
「邸に入る、三月ほど前から。遠くから」
「遠くから」
「藤原の邸の塀の外から、あなたが庭に出るのを、何度か。……ある日、あなたが迷い込んだ痩せた猫に、ご自分の菓子を分けておられました」
綾は、目を丸くした。覚えがあった。誰にも見られていないと思っていた。
「そのとき、思ったのです。ああ、あの日の手だと。粥を分けてくださった、あの手だと」
朔夜は、微かに笑った。
「変わっておられなかった。……それだけで、私は十年分救われた気がいたしました」
綾は、たまらず、両手で顔を覆った。
「ずるいです、朔夜さま」
「はい」
「そんなことを、今になって……」
「はい。申し訳ございません」
謝りながら、朔夜の声はひどく幸せそうだった。
涙が、止まらなかった。けれど怒りは、いつの間にか静かに溶けていた。
――目の前にいるのは、あの小さな、傷だらけの少年ではなかった。
私の腕のなかで震えていた子は、背が伸び、肩が広くなりこんなにも深く、静かな目をして私を見つめている。どうしてだろう。あの頃の面影を探そうとするほど、胸の奥が落ち着かなくなる。


