厨の女房が、感嘆の息を吐いた。
「綾さまは、妖の言葉がお分かりになるのですね。気味が悪いとは思われないのですか」
「悪いものばかりでは、ないのです」
綾は、香炉のそばで小さく丸まった影を見つめて、静かに言った。
「呪いも妖も、恐れや寂しさから生まれるものがきっとあるのだと思います」
その言葉が、のちに自分自身を救うことになるとは、このときの綾は、まだ知らなかった。
その後も数日のうちに、綾は女房たちから噂を聞いた。
「奥庭には誰も入れないの。結界があるのですって」
「月影の皇子さまがおわすのだとか。ひと目見た者は、月に魂を抜かれるそうよ」
「まさか」
綾は笑ったが心のどこかが、そわりとざわついた。
その夕暮れ、薬草籠を抱えて渡殿を歩いていると池の向こう、奥庭へ続く回廊のあたりで人影が動いた。
背の高い、すらりとした後ろ姿。夕日を受けて、月白の衣が揺れている。
その肩の線を、歩き方を、綾は知っていた。
「……朔夜?」
思わず呼び、籠を落として駆け出した。回廊を曲がると、そこには誰もいなかった。ただ、池の面に細い月が揺れているだけだった。


