月影の皇子は女房腹の姫を選ぶ


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 月の離宮は、竹林と池に抱かれた、古く静かな屋敷だった。
 夜になると、池の面に月が映り込み屋敷全体が淡く青白く光る。人の気配は少なく、療養の女房たちが臥せる部屋と薬を煎じる小さな厨があるだけだった。

 着いて三日目の朝、綾は離宮に仕える老女房である小夜の部屋に呼ばれた。
 小夜は半月ものあいだ、夜ごとにうなされ熱を出していた。典薬寮から来た医師は、瀉血を試み苦い煎じ薬を飲ませたが熱は引かない。「気鬱の病でしょう」と匙を投げて帰っていったという。

 綾は枕元に座り、薬箱を開ける前に、目を閉じて耳をすませた。

 ――つらい、つらい。ここは、寒い。

 覚えのある声だった。薬房の隅で、綾が答えたあの細い声。あの日から、この小さな妖は綾の袖にくっついて離れずについてきていたのだ。

 視線を巡らせると、部屋の北の隅の暗がりで、何かが丸くなって震えている気配がした。その冷たい気配が、いちばん弱っていた小夜の枕元へ、寄り添っている。


「……あなただったのね」


 綾がそっと呼びかけると、影が、びくりと揺れた。


 ――あったかい人の、そばにいたい。


 小夜が病んだのは、悪意ある呪いのせいではなかった。寂しさに震える小さな妖が温もりを求めて彼女に寄り添い、その冷たさが、熱と悪夢を呼んでいたのだ。

 綾は少し考えてから、厨へ走った。丁子と桂皮と、干した生姜。身体の芯を温める香を調合し、小さな香炉に炷く。それを部屋の北の隅に置き、古い綿入れの端を敷いた。


「ここがあなたの場所よ。小夜さまから少しだけ離れて。こっちのほうが、ずっとあたたかいから」


 影は、しばらくためらうように揺れた。やがて香炉のそばへ、そろそろと寄っていった。

 小夜の熱は、その日の夕方には下がった。悪夢は、二度と訪れなかった。
 誰に教えられたのでもない。誰の力を借りたのでもない。自分の耳と、薬草と香の知識だけで、綾は、ひとつの苦しみを終わらせたのだ。