月影の皇子は女房腹の姫を選ぶ


 


 転機は、ひと月ほど経ったころに訪れた。
 薬房の長である老女房の千草が、熱病の女房の看病に綾を連れていったのだ。病床の女房は、意味の通らぬ譫言を繰り返している。枕元に薬草を並べていた綾は、ふと手を止めた。


 ――つらい、つらい。ここは、寒い。


 病人の声ではない。もっと細く掠れた獣の子のような声が、部屋の隅から聞こえた。


「……ここに、何かいます」


 千草の手が止まった。


「見えるのですか」

「見えはしません。ただ、声が。取り憑いているのではなく、寂しくて寄り添っているだけのような」


 千草は長いあいだ、綾の顔を見つめていた。それから静かに頷いた。


「薬草と香の知に、妖の声を聞く耳。あなたを、薬房の隅に埋もれさせておくのは惜しい」


 翌日、綾は「月の離宮」へ遣わされることになった。


「宮中の北の外れです。妖に障られた者、呪いを受けた者が、密かに療養する場所。それと」


 千草は声を落とした。


「あそこには、帝に存在を隠された『月影の皇子』がおられるという噂もございます。眉唾ではありましょうが、くれぐれも詮索はなさらぬように」


 そして、さらに声をひそめた。


「それと、藤壺の女御様はあの離宮を、ことのほか恐れておられます。十年余り前あそこが『月の炎』に焼けた夜、女御様の兄君が亡くなられたとか。女御様の前で離宮の話は禁物ですよ」