月影の皇子は女房腹の姫を選ぶ




「殿」


 朔夜の声がした。
 低く、静かで、けれどその底に、氷のように張りつめたものがあった。


「そのお言葉、取り消していただけましょうか」

「……何?」

「綾姫様は、誰かに与えられる品ではございません」


 朔夜は顔を上げ、まっすぐに兼雅を見た。家人が主人に向けるものではない、揺るぎない目だった。


「殿の手を離れるものでも、殿が値をおつけになるものでもございません。あの方は、あの方ご自身のものでございます」


 兼雅の顔から、笑みが消えた。


「家人の分際で、何を言うか。ならば、あれを望んでおるのではないのか」


 朔夜は、否定しなかった。


「望んでおります」


 綾の胸が、大きく跳ねた。


「私は、姫様をお慕いしております。ゆえにこそ、姫様の御心なく触れることはいたしません。殿から譲られる形で姫様を得るつもりは、毛頭ございません」


 沈黙が落ちた。
 やがて、兼雅が怒気に震える声を絞り出した。


「……不遜な。下がれ。おまえにはすぐにも暇を出す。二度と、あれの傍へ寄れると思うな」

「承知いたしました」


 朔夜は、静かに頭を下げた。
 綾は、いつの間にか息を止めていた。盆を持つ手が震え、こぼれた薬湯が指を濡らしていた。熱さは、感じなかった。

 気づかれぬよう、盆を渡殿の隅にそっと置く。そして、音を立てずにその場を離れた。

 渡殿の隅に残された薬湯は、のちに通りかかった女房が見つけ、兼雅のもとへ運んだ。兼雅は、誰が煎じたのかも尋ねぬまま、それを飲み干した。咳はその夜、少しだけ楽になったという。綾がそれを知ることは、なかった。