月影の皇子は女房腹の姫を選ぶ




 その日の午後、綾は薬湯を盆に載せて、寝殿へ向かった。
 父が数日前から咳を患っていると聞き、庭で摘んだ薬草を煎じたのだ。誰に頼まれたわけでもない。疎まれているとわかっていても、父は父だった。
 幼いころ、たった一度だけ、父に頭を撫でられたことがある。母の膝で覚えた薬草の名を口にしたとき、「ほう、賢いな」と、父は目を細めて笑ってくれた。ほんの、一度きりだった。けれど綾は、その一度を、いまも手放せずにいる。
 渡殿を曲がったところで、父の居間から声が漏れ聞こえてきた。


「……聞けば、あれと随分親しいそうだな」


 兼雅の声だった。綾の足が止まる。


「おまえのことだ、朔夜」


 半ば開いた障子の向こうに、朔夜が端座しているのが見えた。立ち入るべきではない、と思いながら、足は動かなかった。


「隠さずともよい。わしとて、若いころは覚えのあることだ」


 父は脇息にもたれ、薄く笑った。


「欲しくば、くれてやろう。あれの母も、もとはわしに仕えた女房だ。血は争えぬ。どこの誰に貰われようと家の名に障らぬ限り構わぬ。むしろ都合がよい。送り出す手間が省ける」


 時が止まった。
 盆の上で、薬湯の面が細かく揺れた。


「持参の一つも出さぬがな。女房腹の娘には、それで十分であろう。後宮へ雑役に出す話も進めておったが、そちらで引き取るというなら、それもよし」


 与えられる、と綾は思った。
 私は、与えられるのだ。あの雑役の口へ。あるいは、家人の手へ。私がどこへ行くのかを決めるのは、私ではない。ずっと、そうだった。