月影の皇子は女房腹の姫を選ぶ



 その日の夕刻、綾は朔夜を伴い、供物を届けに山寺へ出向いた。
 帰り路は、川沿いの竹藪を抜ける細道だった。日は落ちかけ、竹の葉が風に鳴っている。

 ――ひめ。ひめ。


 綾は足を止めた。
 耳元で、誰かが囁いた気がした。幼いころから、綾にはときおり、人には聞こえぬ声が聞こえる。けれどこれほどはっきりと、冷たい息とともに呼ばれたのは初めてだった。


「朔夜。いま、何か――」

「お下がりください」


 言葉より早く、朔夜が綾の前に立った。
 藪の闇がほどけ、黒い影が滲み出した。人の形をしているのに、腕が異様に長い。顔のあたりに、ぽっかりと穴のような口が開いている。影が腕を伸ばした。

 朔夜が片手を掲げた瞬間、淡い光が彼の掌からあふれた。冴えた、青白い月の光のような輝きだった。影は悲鳴とも風の音ともつかぬ声を上げ光に溶けて消えた。

 竹の葉ずれだけが、あとに残った。
 綾は息をするのも忘れていた。朔夜の手の甲に、細い三日月の形の紋が、うっすらと浮かんでいる。だがそれは、彼が手を握ると、灯を吹き消したように失せた。


「……今のは」

「光の加減でございます。お気になさいませんよう」


 嘘だと思った。けれど、嘘をつく彼の声には綾を怯えさせまいとする気遣いだけがあって責める気持ちにはなれなかった。安堵で足の力が抜けそうになったところを朔夜の腕がそっと支えた。触れた指先は驚くほど温かかった。