冥府後宮で十五年、幼馴染は白狼帝になって迎えにきました

 次の日も、その次の日も。
 私と白狼帝——太狼は、この閉ざされた寝所の中で穏やかな時間を過ごしていた。

 朝は共に小袿を選び、昼は温かい食事を共にとり、庭園の桜を眺める。猫を愛で、歌を詠み、冥府の川沿いを散歩する。そして夜には体を寄せ合って二人で眠る。
 なんてことのない日々。けれどその『日常』をくれる白狼帝の優しい瞳は太狼に似ていて、心が温かくなる。

(こんな幸せで、本当にいいのかな)

 大極殿で見せる冷酷な皇帝の顔は鳴りを潜め、彼はただ私だけを甘やかし、愛を注いでくれる。
 彼と触れ合うたび、胸の奥で純粋な愛情が着々と芽生えていくのを感じていた。
 優しくて、暖かくて、大好きだった人。
 どれだけ身体が大きくなっても、恐ろしい皇帝になっても、私を想ってくれるその心は十五年前から何も変わっていない。

(私は今の彼も——)
 
 心が解れていくたび、ぶるぶると頭を振って否定する。
 彼は優しいとと様を排し、どこかへ追いやってしまった男。心を許してはいけない。
 
「どうしましたか」
 
 けれどそんな私の考えすら見越しているかのように、白狼帝は私が悩むたび、髪を優しく撫でながら笑うのだ。

「望みがあれば何でもお伝えください、我が君」

 望み。衣食住、安心、愛情、全てを与えられた私がまだ望むもの。
 それは——
 
「とと様に、会いたい」

 冥府に迷い込んだ私を拾い、優しく教え導いてくれた大切な恩人。

「お願い、太狼。どうかもう一度だけ、とと様に会わせて」

 私がすがりつくように頼むと、太狼はわずかに目を伏せ、言いよどんだ。

「わかった……」
「太狼……! ああ、ありがとう」

 白狼帝は苦々しい顔で、けれどこくりと頷いた。とと様は無事なのだ。
 ほう、と息を吐いて安堵したその時だった。
 ——私たちの間で、突如として青白い炎が燃え上がった。

「な、なにが起きたの!?」
「冥花様。後ろへ」

 炎の中から、亜麻色の尾が見える。
 豊かな九つの尾を持つ、絶世の美女——九尾妃。
 彼女の後ろにもまた狐の耳と尾を持つ妖たちが控えている。

「反乱か? 九尾妃」
「うふふ。話の早い方」
 
 九尾妃は妖しく笑う。その微笑みが恐ろしかった。

(何を考えているの。冥府で帝に逆らうなんて、できるわけがないのに——)

 そこまで考えて、ふと、白狼帝が帝位を奪った日のことを思い出す。

(帝は全知全能。それなら白狼帝は、どうやってとと様から帝位を奪えたというの……)

 なにか、有るのだ。絶対的な力を持つ帝の倒し方が。
 
「小賢しい真似を」
「太狼っ、駄目……!」
 
 白狼帝が私を背後に庇いながら九尾妃を討ち果たそうと手を掲げた。
 霊力の塊が眩い矢となって九尾妃めがけて放たれる。
 けれど——

「ぐっ……、あ……ぁぁぁッ!!」

 太狼の口から、激しい苦悶の叫びが漏れた。
 彼の身体が、黒い靄に包まれていく。形が変わっていく。美しい顔は歪み、二足の足が四足になる、体中に毛が生え、そして地を這うような唸り声がする。
 彼は、その名の通り白い狼へと変貌してしまった。

「太狼!?」
「あはははは! それがあなたの本性、あさましいけだものの心! いい気味ですわね、白狼陛下!」

 九尾妃が甲高い声で嘲笑う。

「冥府における絶対的な力とは、現世からの『信仰』に依るもの。わたくし、現世へ『遠征』し、あなたを祀る廟をすべて破壊し、その力を封じてさしあげましたのよ!」

 その言葉に、私は息を呑んだ。
 現世の信仰を絶ち、力を奪う。
 そうだ、きっと白狼帝も夜魔大帝に同じことをしたのだ。皮肉にも夜魔大帝を封じたのと同じ手で、白狼帝は窮地に陥っている。

「さあ、おしまいよ! あの世で二人仲良く灰になさい!」

 九尾妃の放った狐火が爆発し、宮が一気に蒼炎に包まれる。
 迫り来る業火。死んでしまう。けれど狼と化した太狼は、それでも私を炎から守るように、その身を挺して私に覆い被さった。

 熱い。苦しい。
 ああ、この炎を知っている。この絶望を、私は知っている。

『殺して』

 私の魂の奥底で、固く閉ざされていた記憶の封印が砕け散り、すべての光景が鮮明に蘇った。

『太狼、命令です。私を……殺しなさい』
『……仰せのままに、我が君』

 自分の声が、頭の中に響く。太狼の泣きそうな、苦しそうな声も。
 そうだ。十五年前の現世で。私は妖の火事に巻き込まれて死んだのではない。
 
 ——私は、太狼に自分を殺させたのだ。