皇帝の寝所に囚われた私に与えられた『罰』。
それは、あまりにも理不尽で、溶けてしまいそうなほど甘やかなものだった。
「……ご命令を。冥花、我が君」
豪奢な天蓋付きの寝台に腰を掛けると、すぐ傍らで白狼帝が床に片膝をついていた。
現世では悪鬼と恐れられ、今は冥府の全てを統べる恐ろしい皇帝。
そんな彼が、まるで忠実な犬のように首を垂れ、私の言葉を待っている。大極殿で見せた冷酷な姿はそこにはなく、見上げてくる金色の瞳には、私への熱を帯びた執着だけがとろりと渦巻いていた。
「その呼び方はやめてください……」
「駄目だ。これがお前への罰なのだから」
そう、私はこの閉ざされた寝所でのみ『女帝』となったのだ。
これが、彼が私に下した罰の形。
かつての幼馴染とはいえ、今の私と白狼帝は歳の差が十五もある。しかも表では彼は皇帝だ。
あべこべな立場に恐縮しきりの私が苦言を呈すると、主従ごっこの設定はどこへやら、ぴしゃりと却下される。
「ご命令を、我が君」
「ええと……ちょっと寒いので、火をつけてくれますか?」
「言葉遣いを直せ」
「ひ、火をつけ……なさい……!」
この冥府の全ては、白狼帝の思いのままだ。
彼が夜を願えば、窓の外では夜の虫が鳴く。彼が冬を願えば、しんしんと降る雪の中に真紅の椿が咲き誇る。
皇帝の寝室といえど、寒さで手がかじかむ。今思い浮かぶお願い——もとい命令は、『体を温めたい』以外に浮かばなかった。
「冷えているのなら、こらへ」
しかし白狼帝は私の言うことを聞かず、彼は大きな体で私をすっぽりと包み込み、ぎゅうっときつく抱きしめる。
「火はー!?」
「こちらの方が早く、確実に温まります」
自分で命令を望んだくせに!
けれど彼から伝わる大人の男の体温と、力強い心臓の音が心地よくて、私は抗うこともできずにその腕の中で暖を取る。現世で、同じ年だった時も大きいと思っていた体は、もっと大きくなっている。掌は私の二倍ほどもあるし、大きな胸板には筋肉がしっかりと付いている。
(やっぱり、私の知っている太狼じゃない……!)
かつての太狼なら、私をこんな扱いはしなかった。仲の良い友人であり、厳しい兄であり、頼れる従者。それが太狼だったのに。
「愛しい我が君。俺の心も温まるようだ」
今や恋人のように接し、犬のように命令を待っている。
私にとってはほんの短い冥府での時間と、彼がすごした十五年に差がありすぎて、頭がくらくらする。
そんなことを思っていると、くう、とお腹の虫が鳴いてしまった。
よく考えれば宵闇宮に落とされてから何も口にしていない。恥ずかしくて耳まで真っ赤に染めていると、白狼帝がくすりと耳元で笑った。
「食事にいたしましょう」
白狼帝が望めば、すぐに極上の食事が運ばれてくる。
鯛がまるごと入った土鍋ご飯に、豪華な海鮮の蒸し寿司、湯気を立てた玉露のお茶が添えられている。
「どうぞ」
白狼帝は艶めくご飯を匙に乗せると、私の口元へと運んでくる。
子供じゃないんだから、と怒るより前に私はあることが気になった。
「あの、太狼……毒見は、しなくていいの?」
食事には、毒が盛られている。何故か直感的にそう思った私は、恐る恐る尋ねる。
白狼帝は一瞬金色の瞳を曇らせるが、すぐに蕩けるような笑顔になってにこりと微笑んだ。
「不要です。皇帝たる俺が『毒など消えろ』と願えば、この冥府の毒は全て無に還るのです。さあ、口を開けて」
「あ、あーん……」
言われるがままに口に含むと、とろけるような旨味と温かさが胃の腑に落ちていく。
冷えていた私の体は、彼に与えられる熱でどんどんと温められていった。
(嬉しい、な……)
こんなことを考えている場合なのだろうか。とと様の安否もわからないし、私は建前上罰を受けている。
けれど、大きくなった太狼との心地よい日々を、私の心は何よりも喜んでいた。
「……桜?」
食事を終えたころ、窓から風がそよいできた。冷たい風が季節外れの桜の花びらを運んでくる。
「外には桜が咲いているの?」
「ええ。あなたの好きな花でしょう」
「へえ、見てみたいわ」
私がぽつりと呟くと、彼は「仰せのままに」と私の手を引く。
絹の帳を開けると、庭園に足を進めていく。
「え、出ていいの!?」
「閉じ込めているわけではありません」
そんなことを言いつつも、しっかりと繋がれた手からは、彼が絶対に私を離さないという強い意志が伝わってくる。
「そうだ。猫には、鈴を——」
「猫? あっ!」
「にゃっ!」
白狼帝が私の背後に回り込んだかと思うと、大きな体をかがめている。その視線の先には、どこから現れたのかあの黒猫がすりすりと足元にすり寄っていた。
「あなた、来ていたの?」
「にゃー」
「飼い猫には鈴をつけておきますね」
飼い猫、というわけではないけれど。白狼帝の優しい心に答えたのか、猫は「にゃん」と鳴いて鈴を受け入れた。
動く度にちりちりとなる鈴は、この猫ちゃんがどこにいるかをすぐに私に教えてくれる。
「よかった。離れちゃったのかと思った」
短い付き合いとはいえ、とと様を失って寂しい心を埋めてくれた小さな友人。
その子を失わずに済んだことで、心が軽くなる。
(……あれ、この音色。どこかで……)
ちりん、ちりん。音が鳴る度何かを思い出す。
けれど記憶には霞がかかって思い出せない。私は、何を忘れているのだろう。
「……ありがとう。離れちゃうと、寂しかったから」
「いいんです。他に友人が欲しければ、女官から見繕ってきます」
「もう、甘やかしすぎよ。これじゃあ、何が罰かわからないじゃない」
私がそう言うと、やっぱり白狼帝は寂しそうに笑う。
その笑顔があまりにも切なくて、彼は泣いている、と直感的に思った。涙など、一滴も流していないのに。
「……これこそが罰ですから」
「どこが、罰なの?」
「思い出せばわかります。今この状況こそ、あなたが最も恐れる罰だったということに」
「私は、何を忘れているの?」
「思い出さなくてもいいのです」
答えのない問答に、私の小さい頭はぐるぐると回る。
白狼帝は何を考えているのかわからない。けれど、わからないままの方がいいかもしれない。
もやもやと晴れない心のまま、私たちは晴天の下の桜を二人で眺めたのだった。
◇ ◇ ◇
——時を同じくして。
華やかな九尾妃の宮では、悲鳴のような声が響き渡っていた。
「女帝の真似事!? あの化猫、正妃どころか女帝になるつもりだったのね!」
報告に駆けつけた女官の目の前で、九尾妃は手にしていた美しい硝子の杯を、怒りに任せて粉々に握りつぶした。
ぽたぽたと血が滴るが、怒りに狂う九尾妃は気にしない。
女官がひぃ、と小さく悲鳴を上げていた。
「泥棒猫といい、あの野良犬といい……人間ども、よっぽど燃やしてほしいみたいね」
九尾妃は滴る血を赤い舌でぺろりとなめると、妖しく笑う。
嫉妬の炎が、ゆらりと揺らめいていた。
それは、あまりにも理不尽で、溶けてしまいそうなほど甘やかなものだった。
「……ご命令を。冥花、我が君」
豪奢な天蓋付きの寝台に腰を掛けると、すぐ傍らで白狼帝が床に片膝をついていた。
現世では悪鬼と恐れられ、今は冥府の全てを統べる恐ろしい皇帝。
そんな彼が、まるで忠実な犬のように首を垂れ、私の言葉を待っている。大極殿で見せた冷酷な姿はそこにはなく、見上げてくる金色の瞳には、私への熱を帯びた執着だけがとろりと渦巻いていた。
「その呼び方はやめてください……」
「駄目だ。これがお前への罰なのだから」
そう、私はこの閉ざされた寝所でのみ『女帝』となったのだ。
これが、彼が私に下した罰の形。
かつての幼馴染とはいえ、今の私と白狼帝は歳の差が十五もある。しかも表では彼は皇帝だ。
あべこべな立場に恐縮しきりの私が苦言を呈すると、主従ごっこの設定はどこへやら、ぴしゃりと却下される。
「ご命令を、我が君」
「ええと……ちょっと寒いので、火をつけてくれますか?」
「言葉遣いを直せ」
「ひ、火をつけ……なさい……!」
この冥府の全ては、白狼帝の思いのままだ。
彼が夜を願えば、窓の外では夜の虫が鳴く。彼が冬を願えば、しんしんと降る雪の中に真紅の椿が咲き誇る。
皇帝の寝室といえど、寒さで手がかじかむ。今思い浮かぶお願い——もとい命令は、『体を温めたい』以外に浮かばなかった。
「冷えているのなら、こらへ」
しかし白狼帝は私の言うことを聞かず、彼は大きな体で私をすっぽりと包み込み、ぎゅうっときつく抱きしめる。
「火はー!?」
「こちらの方が早く、確実に温まります」
自分で命令を望んだくせに!
けれど彼から伝わる大人の男の体温と、力強い心臓の音が心地よくて、私は抗うこともできずにその腕の中で暖を取る。現世で、同じ年だった時も大きいと思っていた体は、もっと大きくなっている。掌は私の二倍ほどもあるし、大きな胸板には筋肉がしっかりと付いている。
(やっぱり、私の知っている太狼じゃない……!)
かつての太狼なら、私をこんな扱いはしなかった。仲の良い友人であり、厳しい兄であり、頼れる従者。それが太狼だったのに。
「愛しい我が君。俺の心も温まるようだ」
今や恋人のように接し、犬のように命令を待っている。
私にとってはほんの短い冥府での時間と、彼がすごした十五年に差がありすぎて、頭がくらくらする。
そんなことを思っていると、くう、とお腹の虫が鳴いてしまった。
よく考えれば宵闇宮に落とされてから何も口にしていない。恥ずかしくて耳まで真っ赤に染めていると、白狼帝がくすりと耳元で笑った。
「食事にいたしましょう」
白狼帝が望めば、すぐに極上の食事が運ばれてくる。
鯛がまるごと入った土鍋ご飯に、豪華な海鮮の蒸し寿司、湯気を立てた玉露のお茶が添えられている。
「どうぞ」
白狼帝は艶めくご飯を匙に乗せると、私の口元へと運んでくる。
子供じゃないんだから、と怒るより前に私はあることが気になった。
「あの、太狼……毒見は、しなくていいの?」
食事には、毒が盛られている。何故か直感的にそう思った私は、恐る恐る尋ねる。
白狼帝は一瞬金色の瞳を曇らせるが、すぐに蕩けるような笑顔になってにこりと微笑んだ。
「不要です。皇帝たる俺が『毒など消えろ』と願えば、この冥府の毒は全て無に還るのです。さあ、口を開けて」
「あ、あーん……」
言われるがままに口に含むと、とろけるような旨味と温かさが胃の腑に落ちていく。
冷えていた私の体は、彼に与えられる熱でどんどんと温められていった。
(嬉しい、な……)
こんなことを考えている場合なのだろうか。とと様の安否もわからないし、私は建前上罰を受けている。
けれど、大きくなった太狼との心地よい日々を、私の心は何よりも喜んでいた。
「……桜?」
食事を終えたころ、窓から風がそよいできた。冷たい風が季節外れの桜の花びらを運んでくる。
「外には桜が咲いているの?」
「ええ。あなたの好きな花でしょう」
「へえ、見てみたいわ」
私がぽつりと呟くと、彼は「仰せのままに」と私の手を引く。
絹の帳を開けると、庭園に足を進めていく。
「え、出ていいの!?」
「閉じ込めているわけではありません」
そんなことを言いつつも、しっかりと繋がれた手からは、彼が絶対に私を離さないという強い意志が伝わってくる。
「そうだ。猫には、鈴を——」
「猫? あっ!」
「にゃっ!」
白狼帝が私の背後に回り込んだかと思うと、大きな体をかがめている。その視線の先には、どこから現れたのかあの黒猫がすりすりと足元にすり寄っていた。
「あなた、来ていたの?」
「にゃー」
「飼い猫には鈴をつけておきますね」
飼い猫、というわけではないけれど。白狼帝の優しい心に答えたのか、猫は「にゃん」と鳴いて鈴を受け入れた。
動く度にちりちりとなる鈴は、この猫ちゃんがどこにいるかをすぐに私に教えてくれる。
「よかった。離れちゃったのかと思った」
短い付き合いとはいえ、とと様を失って寂しい心を埋めてくれた小さな友人。
その子を失わずに済んだことで、心が軽くなる。
(……あれ、この音色。どこかで……)
ちりん、ちりん。音が鳴る度何かを思い出す。
けれど記憶には霞がかかって思い出せない。私は、何を忘れているのだろう。
「……ありがとう。離れちゃうと、寂しかったから」
「いいんです。他に友人が欲しければ、女官から見繕ってきます」
「もう、甘やかしすぎよ。これじゃあ、何が罰かわからないじゃない」
私がそう言うと、やっぱり白狼帝は寂しそうに笑う。
その笑顔があまりにも切なくて、彼は泣いている、と直感的に思った。涙など、一滴も流していないのに。
「……これこそが罰ですから」
「どこが、罰なの?」
「思い出せばわかります。今この状況こそ、あなたが最も恐れる罰だったということに」
「私は、何を忘れているの?」
「思い出さなくてもいいのです」
答えのない問答に、私の小さい頭はぐるぐると回る。
白狼帝は何を考えているのかわからない。けれど、わからないままの方がいいかもしれない。
もやもやと晴れない心のまま、私たちは晴天の下の桜を二人で眺めたのだった。
◇ ◇ ◇
——時を同じくして。
華やかな九尾妃の宮では、悲鳴のような声が響き渡っていた。
「女帝の真似事!? あの化猫、正妃どころか女帝になるつもりだったのね!」
報告に駆けつけた女官の目の前で、九尾妃は手にしていた美しい硝子の杯を、怒りに任せて粉々に握りつぶした。
ぽたぽたと血が滴るが、怒りに狂う九尾妃は気にしない。
女官がひぃ、と小さく悲鳴を上げていた。
「泥棒猫といい、あの野良犬といい……人間ども、よっぽど燃やしてほしいみたいね」
九尾妃は滴る血を赤い舌でぺろりとなめると、妖しく笑う。
嫉妬の炎が、ゆらりと揺らめいていた。



