朝、目を覚ますと、隣にいたはずの白狼帝の姿はすでになかった。
寝台の傍らには、銀糸が豪奢に織り込まれた錦の小袿が静かに置かれている。
化猫妃の私には到底似つかわしくない、目が眩むほど上等な衣に、私は思わず唖然とした。
「白狼帝は、何が望みなの」
女帝になれと迫ったかと思えば、拒絶した私をこんなボロボロの宮へと追いやり……それでもなお、最高位の妃が纏うような美しい衣を与えてくる。
小袿から焚き染められた香が漂う。化猫となった鼻が、無意識にひくりと動いた。
「匂い……そういえば」
その瞬間、別の匂いが記憶の底から蘇った。
燃え盛る炎の中で泣き叫んでいたあの日、私はある特定の『匂い』を嗅いでいた。
それは、ただの木が燃える煙の匂いではない。甘い香木と、獣の匂いが混ざった、妖の匂い。
「この匂い……私、どこかで……」
ピクリ、と頭の上の猫耳が動いた。
白狼帝から化猫の呪いを受けた私の身体は、人間の頃とは比べ物にならないほど五感が研ぎ澄まされている。特に嗅覚は、闇の中に潜む微かな匂いさえも嗅ぎ分けることができた。
もし、この後宮のどこかに、あの時と同じ匂いを放つ者がいるとしたら——
「にゃおん」
足元で、黒猫が鳴いた。
まるで私の考えを見透かしたかのように、真っ暗な外へと歩き出し、振り返る。
「……案内してくれるの?」
黒猫がこくりと頷いたような気がして、私は立ち上がった。
白狼帝が「今は夜」と命じたのか、後宮の者たちは皆寝静まっている。
私は誰にも見つからないよう、荒れた庭の木から屋根へと跳躍した。
「ひゃっ、すごい!」
化猫となった私の身体は驚くほど軽く、音もなくひらりと屋根に飛び乗ることができた。
これまでならあり得ないことだ。軽い体が楽しくて、二つの尾がご機嫌にゆらゆらと揺れる。
「あはは、楽しい! 本当に猫になったみたい」
夜目が効く体は暗闇をものともしない。影に溶け込みながらいくつもの豪奢な宮を飛び越えていく。
やがて、ひときわ大きくて華やかな宮の屋根に降り立った時、私の鼻が『それ』を捉えた。
「……ここだわ」
甘い香木と、獣の匂い。
間違いない、あの日私の家を焼き尽くした炎の匂いだ。
そっと瓦屋根を伝い、明かりの漏れる高窓の隙間から下を覗き込む。
「あの大帝の娘が化猫だなんて、本当にいい気味だわ」
くすくすと笑い声をあげていたのは、美しい亜麻色の髪を梳く九尾妃だった。
彼女は湯浴みを終えたばかりなのか、薄い絹の衣を一枚だけ纏い、侍女に世話をさせている。
(……やっぱり、九尾妃の匂い……)
どうして忘れていたのだろう。あの日屋敷を襲ったのは、怪火を纏う大きな九尾の狐だったことを。
彼女は私と、太狼と、敵対していた。
(彼女が怪しいわ)
そう思った時だった。九尾妃が忌々しげに衣を少しはだけさせ、白い肩から背中にかけてを晒した。
私の目は、彼女の背中に釘付けになった。
なめらかな白い肌に、ひどく不釣り合いな巨大な傷跡があったのだ。刀で深く切られたような、生々しい傷。
「ああ、冥府の薬湯でもまだ消えない! 忌々しい傷だこと」
「おいたわしや、九尾妃様。ですがまさに僥倖。その傷をつけた不届き者こそあの白狼帝であることを知るのは、あなただけでございます」
「丁度この間、人間に呼ばれて『遠征』し、街を焼いた。あの場にいた忌々しい男が、まさか白狼帝として冥府に来るとはね。ふふふ、あの男、『自分を殺したものが誰か』とは、なんて愚かな謎かけをするというの。答えはすべて私の手の中にあると言うのに」
「答えはあなた様の中にのみある。明日、堂々とお答えくださいませ」
「そうね、そうしましょう」
『遠征』というのは、妖が現世の陰陽師に呼ばれて召喚されることだ。
九尾妃が憎々しげに傷跡を撫でた瞬間、私の中で全ての点と点が繋がった。
現世は政争のため、妖を召喚しての大戦争が起きていていた。太狼は白狼将軍として生きていたとき、政敵が呼び出した九尾妃によって殺されてしまったにちがいない。
(九尾妃の怒りはまだ残っている。彼女を正妃にしたら、白狼帝は何をされるかわからない!)
息を呑み、私はきゅっと拳を握りしめた。
私の家族を襲うだけでは飽き足らず、大人になった太狼の命までも奪った九尾妃。
許さない。太狼を——白狼帝の無念を晴らすために。
私は明日の朝、大極殿の御前で、彼女の罪を暴いてみせる。
「……行こう」
黒猫に小さく囁きかけると、私は確かな決意を胸に抱き、再び夜の闇へと身を翻した。
寝台の傍らには、銀糸が豪奢に織り込まれた錦の小袿が静かに置かれている。
化猫妃の私には到底似つかわしくない、目が眩むほど上等な衣に、私は思わず唖然とした。
「白狼帝は、何が望みなの」
女帝になれと迫ったかと思えば、拒絶した私をこんなボロボロの宮へと追いやり……それでもなお、最高位の妃が纏うような美しい衣を与えてくる。
小袿から焚き染められた香が漂う。化猫となった鼻が、無意識にひくりと動いた。
「匂い……そういえば」
その瞬間、別の匂いが記憶の底から蘇った。
燃え盛る炎の中で泣き叫んでいたあの日、私はある特定の『匂い』を嗅いでいた。
それは、ただの木が燃える煙の匂いではない。甘い香木と、獣の匂いが混ざった、妖の匂い。
「この匂い……私、どこかで……」
ピクリ、と頭の上の猫耳が動いた。
白狼帝から化猫の呪いを受けた私の身体は、人間の頃とは比べ物にならないほど五感が研ぎ澄まされている。特に嗅覚は、闇の中に潜む微かな匂いさえも嗅ぎ分けることができた。
もし、この後宮のどこかに、あの時と同じ匂いを放つ者がいるとしたら——
「にゃおん」
足元で、黒猫が鳴いた。
まるで私の考えを見透かしたかのように、真っ暗な外へと歩き出し、振り返る。
「……案内してくれるの?」
黒猫がこくりと頷いたような気がして、私は立ち上がった。
白狼帝が「今は夜」と命じたのか、後宮の者たちは皆寝静まっている。
私は誰にも見つからないよう、荒れた庭の木から屋根へと跳躍した。
「ひゃっ、すごい!」
化猫となった私の身体は驚くほど軽く、音もなくひらりと屋根に飛び乗ることができた。
これまでならあり得ないことだ。軽い体が楽しくて、二つの尾がご機嫌にゆらゆらと揺れる。
「あはは、楽しい! 本当に猫になったみたい」
夜目が効く体は暗闇をものともしない。影に溶け込みながらいくつもの豪奢な宮を飛び越えていく。
やがて、ひときわ大きくて華やかな宮の屋根に降り立った時、私の鼻が『それ』を捉えた。
「……ここだわ」
甘い香木と、獣の匂い。
間違いない、あの日私の家を焼き尽くした炎の匂いだ。
そっと瓦屋根を伝い、明かりの漏れる高窓の隙間から下を覗き込む。
「あの大帝の娘が化猫だなんて、本当にいい気味だわ」
くすくすと笑い声をあげていたのは、美しい亜麻色の髪を梳く九尾妃だった。
彼女は湯浴みを終えたばかりなのか、薄い絹の衣を一枚だけ纏い、侍女に世話をさせている。
(……やっぱり、九尾妃の匂い……)
どうして忘れていたのだろう。あの日屋敷を襲ったのは、怪火を纏う大きな九尾の狐だったことを。
彼女は私と、太狼と、敵対していた。
(彼女が怪しいわ)
そう思った時だった。九尾妃が忌々しげに衣を少しはだけさせ、白い肩から背中にかけてを晒した。
私の目は、彼女の背中に釘付けになった。
なめらかな白い肌に、ひどく不釣り合いな巨大な傷跡があったのだ。刀で深く切られたような、生々しい傷。
「ああ、冥府の薬湯でもまだ消えない! 忌々しい傷だこと」
「おいたわしや、九尾妃様。ですがまさに僥倖。その傷をつけた不届き者こそあの白狼帝であることを知るのは、あなただけでございます」
「丁度この間、人間に呼ばれて『遠征』し、街を焼いた。あの場にいた忌々しい男が、まさか白狼帝として冥府に来るとはね。ふふふ、あの男、『自分を殺したものが誰か』とは、なんて愚かな謎かけをするというの。答えはすべて私の手の中にあると言うのに」
「答えはあなた様の中にのみある。明日、堂々とお答えくださいませ」
「そうね、そうしましょう」
『遠征』というのは、妖が現世の陰陽師に呼ばれて召喚されることだ。
九尾妃が憎々しげに傷跡を撫でた瞬間、私の中で全ての点と点が繋がった。
現世は政争のため、妖を召喚しての大戦争が起きていていた。太狼は白狼将軍として生きていたとき、政敵が呼び出した九尾妃によって殺されてしまったにちがいない。
(九尾妃の怒りはまだ残っている。彼女を正妃にしたら、白狼帝は何をされるかわからない!)
息を呑み、私はきゅっと拳を握りしめた。
私の家族を襲うだけでは飽き足らず、大人になった太狼の命までも奪った九尾妃。
許さない。太狼を——白狼帝の無念を晴らすために。
私は明日の朝、大極殿の御前で、彼女の罪を暴いてみせる。
「……行こう」
黒猫に小さく囁きかけると、私は確かな決意を胸に抱き、再び夜の闇へと身を翻した。



