「ああ……」
最後に小さな水音を立てて、私の身体は完全に水の中へと沈み込んだ。
息ができない。もがけばもがくほど、水は私を底へと引きずり込んでいく。
何もつかめない手が宙をかき、肺から空気が抜け、意識が遠のいていく。
——そうだ。私、この水の冷たさを知っている。
天を焦がすような大火、地を行く恐ろしい妖たち。そして、冷たい水の底。
これは——現世の記憶。
そうだ、どうして忘れていたのだろう。私の屋敷は突如として妖に襲われ、紅蓮の炎に包まれた。
私は火のついた着物を纏いながら、泣き叫んで逃げて、逃げて、そして熱さから逃れるように川へ身を投げたのだ。
沈んでいく。息ができない。恐ろしい。寒い。
もう駄目だと目を閉じた暗闇の底で、私を引っ張り上げてくれたのは——
「——冥花様!」
太狼、だった。
「ぷはっ……!」
ばしゃんっ、と激しい水音と共に、私の身体が水面へと引き上げられた。
肺に冷たい空気が流れ込み、激しく咳き込む。水を吐いて、とにかく呼吸を確保する。体が勝手に涙を流していた。
視界を覆っていた水を拭うと、そこには私を抱き寄せる太狼——いや、白狼帝の姿があった。
池のほとりに、私を嘲笑っていた九尾妃の姿はもうどこにもない。
「太狼……」
「お前は、昔から溺れるのが好きだな」
呆れたような、けれどどこか酷く安堵したような低い声が降ってきた。
白狼帝は濡れそぼった私をその屈強な腕に抱え上げると、軽々と抱き上げた。
「……随分と、軽いな」
「げほっ、ごほっ……じょ、女性に向かって……なんてことを言うの……!」
水から上がった私を苛むのは、冥府の凍えるような寒さ。
震えながら抗議すると、彼は鼻でふっと笑った。
十歳の子供の身体のままで止まっている私など、大人の男性に成長した彼にとっては羽のように軽いのだろう。
「あなた、何故ここに……」
「さあな」
彼はそのまま真っ直ぐに歩き出し、私が追いやられたボロボロの宮——『宵闇宮』へと足を進める。
朽ち果て、誰からも忘れられた宮。ここが、化猫妃となった私の新たな住処。
玄関の板間では、あの真っ黒な猫がちょこんと鎮座して、私たちを見上げていた。
「にゃあ」
まるで、「おかえり」と言っているかのようだ。こんな状況なのに少しだけ可笑しくて、私は微かに頬を緩めた。
「服を脱げ、風邪を引くぞ」
「で、でも……」
「何を照れている。昔は風呂にも一緒に入って——」
「それは赤ん坊のころでしょう!」
「俺から見れば、今のお前も赤子同然だ」
部屋に入ると、白狼帝は手慣れた様子で古い火鉢に火を熾してくれている。
まるで私には興味ありません、と言わんばかりの背中にむっとした。けれど、恥じらっていても意味がない。私は宵闇宮に置かれていた誰かの小袖を引っ張り出して、慌ててそれに着替えた。
「男性の服はありませんね……ねえ、女性の柄だけど、あなたも小袖を」
「いらん。服などすぐに乾く。それより、火の前に来い」
私は火鉢の前、腰を下ろした白狼帝の隣に座る。すると白狼帝は腰を抱き寄せ、ぎゅっと肌を寄せ合った。
どきり、胸がはねる。けれど白狼帝の心臓の音は変わらない。意識しているのは私だけかと恥ずかしくなり、ぎゅっと目をつぶった。
ぱちぱちと炭がはぜる音が響き、じんわりとした熱と、白狼帝の体温が冷え切った身体を温めていく。
「……暖かい」
素直にそう零すと、白狼帝は「はは」と笑った。
「お前は、何も変わらないな」
「太狼が変わりすぎなんです。白銀の髪も、背の高さも、そんな恐ろしいお顔も……」
「ああ。すべて変わってしまったよ」
彼の金色の瞳が、揺れる炭の火を見つめている。
その横顔には、十五年という月日の間に彼が背負ってきた、重たくて暗いものが張り付いているように見えた。
「今日は、ここに泊まる」
「こ、ここにですか……!?」
白狼帝はそう告げると、部屋の隅にある古びた寝台にそのまま横になってしまった。
私が躊躇っていると「さっさと来い」と冷たい声がかけられた。
恐る恐る隣に入ると、狭い寝台では必然的にぴったりと身体を密着させることになってしまう。
彼から漂う大人の男の香りと、伝わってくる暖かい熱に、私の心臓はうるさく鳴りっぱなしだ。
「あの……」
「何だ」
「妃の寝所でお泊まりになるということは……その、お渡り、は……」
消え入りそうな声で尋ねると、白狼帝は私の頭をぽん、と軽く叩いた。
「するわけがないだろう。お前のような子供に」
「こ、子供って……!」
「寝ろ。身体が冷え切っている」
大きな手で私の目を覆うように撫でると、彼はそれきり目を閉じて、さっさと寝息を立て始めてしまった。
取り残された私は、彼の腕の中で小さく息を吐く。
何が起きたのか。彼に何があってこんなにも変わってしまったのか。大好きなとと様は無事なのか。
聞きたいことは山ほどあった。けれど、私を抱き込むこの腕の温もりだけは、かつての太狼のものだった。
(太狼……どうして、あなたは変わってしまったの)
胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、私は抗いがたい睡魔に身を任せ、静かに目を閉じたのだった。
ふさふさとした二股の尻尾を、太狼の肌の上にのせる。
少しでも彼が温かくなりますように、と祈って。
最後に小さな水音を立てて、私の身体は完全に水の中へと沈み込んだ。
息ができない。もがけばもがくほど、水は私を底へと引きずり込んでいく。
何もつかめない手が宙をかき、肺から空気が抜け、意識が遠のいていく。
——そうだ。私、この水の冷たさを知っている。
天を焦がすような大火、地を行く恐ろしい妖たち。そして、冷たい水の底。
これは——現世の記憶。
そうだ、どうして忘れていたのだろう。私の屋敷は突如として妖に襲われ、紅蓮の炎に包まれた。
私は火のついた着物を纏いながら、泣き叫んで逃げて、逃げて、そして熱さから逃れるように川へ身を投げたのだ。
沈んでいく。息ができない。恐ろしい。寒い。
もう駄目だと目を閉じた暗闇の底で、私を引っ張り上げてくれたのは——
「——冥花様!」
太狼、だった。
「ぷはっ……!」
ばしゃんっ、と激しい水音と共に、私の身体が水面へと引き上げられた。
肺に冷たい空気が流れ込み、激しく咳き込む。水を吐いて、とにかく呼吸を確保する。体が勝手に涙を流していた。
視界を覆っていた水を拭うと、そこには私を抱き寄せる太狼——いや、白狼帝の姿があった。
池のほとりに、私を嘲笑っていた九尾妃の姿はもうどこにもない。
「太狼……」
「お前は、昔から溺れるのが好きだな」
呆れたような、けれどどこか酷く安堵したような低い声が降ってきた。
白狼帝は濡れそぼった私をその屈強な腕に抱え上げると、軽々と抱き上げた。
「……随分と、軽いな」
「げほっ、ごほっ……じょ、女性に向かって……なんてことを言うの……!」
水から上がった私を苛むのは、冥府の凍えるような寒さ。
震えながら抗議すると、彼は鼻でふっと笑った。
十歳の子供の身体のままで止まっている私など、大人の男性に成長した彼にとっては羽のように軽いのだろう。
「あなた、何故ここに……」
「さあな」
彼はそのまま真っ直ぐに歩き出し、私が追いやられたボロボロの宮——『宵闇宮』へと足を進める。
朽ち果て、誰からも忘れられた宮。ここが、化猫妃となった私の新たな住処。
玄関の板間では、あの真っ黒な猫がちょこんと鎮座して、私たちを見上げていた。
「にゃあ」
まるで、「おかえり」と言っているかのようだ。こんな状況なのに少しだけ可笑しくて、私は微かに頬を緩めた。
「服を脱げ、風邪を引くぞ」
「で、でも……」
「何を照れている。昔は風呂にも一緒に入って——」
「それは赤ん坊のころでしょう!」
「俺から見れば、今のお前も赤子同然だ」
部屋に入ると、白狼帝は手慣れた様子で古い火鉢に火を熾してくれている。
まるで私には興味ありません、と言わんばかりの背中にむっとした。けれど、恥じらっていても意味がない。私は宵闇宮に置かれていた誰かの小袖を引っ張り出して、慌ててそれに着替えた。
「男性の服はありませんね……ねえ、女性の柄だけど、あなたも小袖を」
「いらん。服などすぐに乾く。それより、火の前に来い」
私は火鉢の前、腰を下ろした白狼帝の隣に座る。すると白狼帝は腰を抱き寄せ、ぎゅっと肌を寄せ合った。
どきり、胸がはねる。けれど白狼帝の心臓の音は変わらない。意識しているのは私だけかと恥ずかしくなり、ぎゅっと目をつぶった。
ぱちぱちと炭がはぜる音が響き、じんわりとした熱と、白狼帝の体温が冷え切った身体を温めていく。
「……暖かい」
素直にそう零すと、白狼帝は「はは」と笑った。
「お前は、何も変わらないな」
「太狼が変わりすぎなんです。白銀の髪も、背の高さも、そんな恐ろしいお顔も……」
「ああ。すべて変わってしまったよ」
彼の金色の瞳が、揺れる炭の火を見つめている。
その横顔には、十五年という月日の間に彼が背負ってきた、重たくて暗いものが張り付いているように見えた。
「今日は、ここに泊まる」
「こ、ここにですか……!?」
白狼帝はそう告げると、部屋の隅にある古びた寝台にそのまま横になってしまった。
私が躊躇っていると「さっさと来い」と冷たい声がかけられた。
恐る恐る隣に入ると、狭い寝台では必然的にぴったりと身体を密着させることになってしまう。
彼から漂う大人の男の香りと、伝わってくる暖かい熱に、私の心臓はうるさく鳴りっぱなしだ。
「あの……」
「何だ」
「妃の寝所でお泊まりになるということは……その、お渡り、は……」
消え入りそうな声で尋ねると、白狼帝は私の頭をぽん、と軽く叩いた。
「するわけがないだろう。お前のような子供に」
「こ、子供って……!」
「寝ろ。身体が冷え切っている」
大きな手で私の目を覆うように撫でると、彼はそれきり目を閉じて、さっさと寝息を立て始めてしまった。
取り残された私は、彼の腕の中で小さく息を吐く。
何が起きたのか。彼に何があってこんなにも変わってしまったのか。大好きなとと様は無事なのか。
聞きたいことは山ほどあった。けれど、私を抱き込むこの腕の温もりだけは、かつての太狼のものだった。
(太狼……どうして、あなたは変わってしまったの)
胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、私は抗いがたい睡魔に身を任せ、静かに目を閉じたのだった。
ふさふさとした二股の尻尾を、太狼の肌の上にのせる。
少しでも彼が温かくなりますように、と祈って。



