「太狼……」
「久しいな、姫様」
私の知る太狼とは、何もかもが違う。
烏の濡れ羽色の髪は白銀に変わり、声は低く響いている。血の滴る手には刀が握られていて、何が起きたのかを雄弁に語っていた。
ただひとつ、金色の瞳だけはそのままだった。憂いを帯びながらも、情熱を秘めた狼のような瞳。
冥府の闇を射抜くような、その輝きだけが、目の前の恐ろしい白狼帝が太狼だと教えてくれた。
「太狼なの!? なぜ、こんなことを——」
「あなたが冥府に送られて、地上では十五年が経っている」
「十五年……」
「今こそ、あなたがこの地の女帝となる為に、俺は再びこの地にやってきた」
白狼帝——太狼は、私の前に歩み寄ると、膝をついた。
皇帝が膝をつく。側に支える兵士たちも、九尾妃も「なんてこと」と息を呑む。
「私が、女帝に……?」
「再び、私の主人となるのだ」
そう言うと、太狼——白狼帝は首を垂れる。
彼から漂う濃密な死と血の匂いが恐ろしい。十五年——私が『子供』として過ごしていた冥府の上、地上で、彼に何があったというのか。
恐ろしい。太狼の手に滴る血が、私を大切に育んでくれたとと様の血かと思うと、とてもその手を取れなかった。
「……あなたは、私の知る太狼じゃない」
後ずさると、ぽたりと涙が零れ落ちる。冥府に来てから一度も流したことのない涙は、堰を切ったかのようにとめどなくあふれ出る。
「私は、女帝になどならない!」
そう言うと、太狼の金色の瞳が、すっと細められる。
視線の先にいるのは私なのに、まるで遠い誰かを見ているような目をしていた。
「——はははは!」
突如、白狼帝が声を上げて笑った。
何が面白いのか、全くわからない。狂気を孕んだようなその高笑いに、私だけでなく、兵も、九尾妃ですらさっと血の気を引かせて肝を冷やしている。
「……そうか、それがあなたの望みか」
白狼帝はぽつりと呟くと、ぞっとするほど冷たい目で私を射抜く。
懐かしい金の瞳に私の姿が映る。彼の目には、私しか映っていなかった。
「『お前』はもはや皇帝の寵児にあらず、後宮の化猫よ」
「化猫……?」
次の瞬間、私の身体を激しい熱が駆け巡った。
「あ、う……っ」
頭の上が熱く疼き、腰のあたりに異物感が生まれる。恐る恐る触れてみると、そこには柔らかな獣の耳と、二股に分かれた長い尻尾が生えていた。大帝の加護を失った私は、新たな帝である白狼帝の呪いによって体を変えられてしまった。
「……ふふ」
何がおかしいのか、九尾妃がくすりと笑う。その目にはもう慈愛はなく、野良猫を見るような蔑みが含まれている。
「来い」
白狼帝がそう言うと、地面に五芒星の紋が煌めく。
何を、と言いかけた時にはすでに、私たちは空間を移動していた。
「ここは——」
「大極殿?」
私と九尾妃が息を呑む。しかし兵たちはこの術を知っているのか、平然と白狼帝の後を追う。
「白狼帝、万歳!」
ワアアと兵たちが騒ぐ。私の知らぬうちに、ほんの少しの時間の間に、この世界はすべて変わってしまった。
帝はとと様たる夜魔大帝ではなくなり、後宮も、宮廷も、冥府の全てのものが白狼帝の財産となる。
白狼帝は私たちの横を抜け、玉座に腰を下ろした。階の下には、後宮の妃、女官、侍女、全ての女性たちが揃えられていた。
冷ややかな金色の瞳が広大な空間を見下ろし、張り詰めた静寂の中、新たな帝の勅命が響き渡った——
「『我を冥府に落とした大罪人を捕らえよ』——成し得た者を、我が真の正妃とする」
その言葉に、九尾妃をはじめとする妃たちの目の色が露骨に変わった。
冥府の頂点、正妃の座。妖たちが色めき立ち、欲望に満ちた視線を交錯させる。
(太狼、あなたは……誰かに殺されてしまったの?)
ただ一人、私だけが変化に追いつけていなかった。
私は猫の耳を伏せ、ぎゅっと拳を握りしめる。太狼に何があったのか、とと様は無事なのか、何もかもがわからない。わからないのに——
「皇帝陛下、万歳」
九尾妃の透き通るような声が響く。彼女はあっさりと主の変化を認め、うっとりとその目を輝かせていた。
白狼帝が手を差し伸べると、下級妖たちが饗宴の用意をする。この冥府において、帝が望むものはすべて叶う。
あっという間に、場は新皇帝を祝う宴へと変化した。
九尾妃は最も近くで皇帝に酒を注いでいる。私だけがその変化に追いつけず、逃げるように場を後にした。
「ああ……」
しかし、戻る場所はどこにもなかった。
私がとと様と穏やかな日々を過ごした美しい宮は跡形もなく消え去り、そこにはただ一本の、桜の木がひっそりと植えられているだけだった。
帝が望むことはすべて起こる——白狼帝が私の宮をいらぬと言ったのなら、もうそこに場所は無いのだ。
「にゃおん」
呆然と立ち尽くす私の足元で、不意に鳴き声がした。見下ろすと、闇のように真っ黒な毛並みをした妖の猫が、私を見上げていた。
猫はくるりと背を向けると、私を誘うように歩き出す。ふらふらとその後をついていくと、宮中の外れにある、ひとつのぼろぼろの宮へと辿り着いた。
屋根は朽ち、庭の草木は荒れ果てている。けれど、不思議とそこが今の私の居場所なのだと直感した。
「ここが、私のお家?」
「なん」
私はもう、絶対的な権力を持つ大帝の愛娘ではない。
恐ろしい白狼帝の後宮に落とされた、数多いる妃のひとり、『化猫妃』。
「とと様は、無事なの……?」
大好きなとと様。どうしてしまったのだろう。彼のことを思うと涙が止まらない。はらはらと泣いていると、ざらりとした温かいものが頬に触れた。先ほどの黒猫が私の膝に乗り、ちろちろと涙を舐めとってくれていたのだ。
「……ありがとう。あなた、優しいのね」
「うなっ?」
「ありがとう、少し元気になったわ」
「なん」
小首を傾げる黒猫の姿に、不安な心が少し和らぐ。この小さな猫と過ごしていると、どういうわけか安心した。
しかし真っ黒な猫は気まぐれで、ふいと私の膝から飛び降りると、あっという間に暗闇の中へ姿を消してしまった。
「行っちゃった」
静まり返った朽ちた宮で、私は一人顔を上げる。
泣いてばかりはいられない。とと様の無事を確かめるために、私は何をすればいいのだろうか。
(それに、太狼のことも知りたい。彼に何があったのか……誰に殺されてしまったのか)
考えを巡らせながら荒れた庭の池のほとりに立った、その時だった。
背中を強く突き飛ばされ、視界が反転する。
「えっ——」
凍りつくような冷たい池の水面が、眼前に迫る。ああ、と思う頃には噛みつかれるような冷たい水に体を浸していた。
「くすくす、野良猫が池に落ちましたわ」
「猫臭さがとれて、丁度いいのでは?」
池のほとりから私を見下ろしていたのは、狐の尻尾を揺らす女官たち。
長い袖で口元を隠しながら、私の様子を見て笑っている。
「ああ、せいせいした」
そしてその隣には、冷酷に目を細める九尾妃がいた。
彼女の目には、かつての優しさは微塵もない。汚い獣を見るような視線が、私を真っ直ぐに射抜いていた。
「夜魔大帝が拾ってきた野良猫の世話なんて、ずうっと嫌だったの」
大帝の庇護を失った私に、彼女を繋ぎとめる魅力は何もないのだと、肌で理解した。
大帝が玉座を追われ、私が同じ「妃」という立場に落ちた途端、彼女は本来の残酷な正体を現した。
「九尾妃……なんで、こんな……」
溺れてしまう。絹の寝間着が水を吸って、ぐいぐいと水底に引きずり込まれる。
九尾妃はそんな私を見ながら嗤っている。冷たい水の中でもがく私の手は、誰につかまれることもなくじわじわと沈んでいった。
「お前、あの白狼帝と旧知の仲のようね。正妃の座を狙うなら——一番に潰しておかないとねえ」
「久しいな、姫様」
私の知る太狼とは、何もかもが違う。
烏の濡れ羽色の髪は白銀に変わり、声は低く響いている。血の滴る手には刀が握られていて、何が起きたのかを雄弁に語っていた。
ただひとつ、金色の瞳だけはそのままだった。憂いを帯びながらも、情熱を秘めた狼のような瞳。
冥府の闇を射抜くような、その輝きだけが、目の前の恐ろしい白狼帝が太狼だと教えてくれた。
「太狼なの!? なぜ、こんなことを——」
「あなたが冥府に送られて、地上では十五年が経っている」
「十五年……」
「今こそ、あなたがこの地の女帝となる為に、俺は再びこの地にやってきた」
白狼帝——太狼は、私の前に歩み寄ると、膝をついた。
皇帝が膝をつく。側に支える兵士たちも、九尾妃も「なんてこと」と息を呑む。
「私が、女帝に……?」
「再び、私の主人となるのだ」
そう言うと、太狼——白狼帝は首を垂れる。
彼から漂う濃密な死と血の匂いが恐ろしい。十五年——私が『子供』として過ごしていた冥府の上、地上で、彼に何があったというのか。
恐ろしい。太狼の手に滴る血が、私を大切に育んでくれたとと様の血かと思うと、とてもその手を取れなかった。
「……あなたは、私の知る太狼じゃない」
後ずさると、ぽたりと涙が零れ落ちる。冥府に来てから一度も流したことのない涙は、堰を切ったかのようにとめどなくあふれ出る。
「私は、女帝になどならない!」
そう言うと、太狼の金色の瞳が、すっと細められる。
視線の先にいるのは私なのに、まるで遠い誰かを見ているような目をしていた。
「——はははは!」
突如、白狼帝が声を上げて笑った。
何が面白いのか、全くわからない。狂気を孕んだようなその高笑いに、私だけでなく、兵も、九尾妃ですらさっと血の気を引かせて肝を冷やしている。
「……そうか、それがあなたの望みか」
白狼帝はぽつりと呟くと、ぞっとするほど冷たい目で私を射抜く。
懐かしい金の瞳に私の姿が映る。彼の目には、私しか映っていなかった。
「『お前』はもはや皇帝の寵児にあらず、後宮の化猫よ」
「化猫……?」
次の瞬間、私の身体を激しい熱が駆け巡った。
「あ、う……っ」
頭の上が熱く疼き、腰のあたりに異物感が生まれる。恐る恐る触れてみると、そこには柔らかな獣の耳と、二股に分かれた長い尻尾が生えていた。大帝の加護を失った私は、新たな帝である白狼帝の呪いによって体を変えられてしまった。
「……ふふ」
何がおかしいのか、九尾妃がくすりと笑う。その目にはもう慈愛はなく、野良猫を見るような蔑みが含まれている。
「来い」
白狼帝がそう言うと、地面に五芒星の紋が煌めく。
何を、と言いかけた時にはすでに、私たちは空間を移動していた。
「ここは——」
「大極殿?」
私と九尾妃が息を呑む。しかし兵たちはこの術を知っているのか、平然と白狼帝の後を追う。
「白狼帝、万歳!」
ワアアと兵たちが騒ぐ。私の知らぬうちに、ほんの少しの時間の間に、この世界はすべて変わってしまった。
帝はとと様たる夜魔大帝ではなくなり、後宮も、宮廷も、冥府の全てのものが白狼帝の財産となる。
白狼帝は私たちの横を抜け、玉座に腰を下ろした。階の下には、後宮の妃、女官、侍女、全ての女性たちが揃えられていた。
冷ややかな金色の瞳が広大な空間を見下ろし、張り詰めた静寂の中、新たな帝の勅命が響き渡った——
「『我を冥府に落とした大罪人を捕らえよ』——成し得た者を、我が真の正妃とする」
その言葉に、九尾妃をはじめとする妃たちの目の色が露骨に変わった。
冥府の頂点、正妃の座。妖たちが色めき立ち、欲望に満ちた視線を交錯させる。
(太狼、あなたは……誰かに殺されてしまったの?)
ただ一人、私だけが変化に追いつけていなかった。
私は猫の耳を伏せ、ぎゅっと拳を握りしめる。太狼に何があったのか、とと様は無事なのか、何もかもがわからない。わからないのに——
「皇帝陛下、万歳」
九尾妃の透き通るような声が響く。彼女はあっさりと主の変化を認め、うっとりとその目を輝かせていた。
白狼帝が手を差し伸べると、下級妖たちが饗宴の用意をする。この冥府において、帝が望むものはすべて叶う。
あっという間に、場は新皇帝を祝う宴へと変化した。
九尾妃は最も近くで皇帝に酒を注いでいる。私だけがその変化に追いつけず、逃げるように場を後にした。
「ああ……」
しかし、戻る場所はどこにもなかった。
私がとと様と穏やかな日々を過ごした美しい宮は跡形もなく消え去り、そこにはただ一本の、桜の木がひっそりと植えられているだけだった。
帝が望むことはすべて起こる——白狼帝が私の宮をいらぬと言ったのなら、もうそこに場所は無いのだ。
「にゃおん」
呆然と立ち尽くす私の足元で、不意に鳴き声がした。見下ろすと、闇のように真っ黒な毛並みをした妖の猫が、私を見上げていた。
猫はくるりと背を向けると、私を誘うように歩き出す。ふらふらとその後をついていくと、宮中の外れにある、ひとつのぼろぼろの宮へと辿り着いた。
屋根は朽ち、庭の草木は荒れ果てている。けれど、不思議とそこが今の私の居場所なのだと直感した。
「ここが、私のお家?」
「なん」
私はもう、絶対的な権力を持つ大帝の愛娘ではない。
恐ろしい白狼帝の後宮に落とされた、数多いる妃のひとり、『化猫妃』。
「とと様は、無事なの……?」
大好きなとと様。どうしてしまったのだろう。彼のことを思うと涙が止まらない。はらはらと泣いていると、ざらりとした温かいものが頬に触れた。先ほどの黒猫が私の膝に乗り、ちろちろと涙を舐めとってくれていたのだ。
「……ありがとう。あなた、優しいのね」
「うなっ?」
「ありがとう、少し元気になったわ」
「なん」
小首を傾げる黒猫の姿に、不安な心が少し和らぐ。この小さな猫と過ごしていると、どういうわけか安心した。
しかし真っ黒な猫は気まぐれで、ふいと私の膝から飛び降りると、あっという間に暗闇の中へ姿を消してしまった。
「行っちゃった」
静まり返った朽ちた宮で、私は一人顔を上げる。
泣いてばかりはいられない。とと様の無事を確かめるために、私は何をすればいいのだろうか。
(それに、太狼のことも知りたい。彼に何があったのか……誰に殺されてしまったのか)
考えを巡らせながら荒れた庭の池のほとりに立った、その時だった。
背中を強く突き飛ばされ、視界が反転する。
「えっ——」
凍りつくような冷たい池の水面が、眼前に迫る。ああ、と思う頃には噛みつかれるような冷たい水に体を浸していた。
「くすくす、野良猫が池に落ちましたわ」
「猫臭さがとれて、丁度いいのでは?」
池のほとりから私を見下ろしていたのは、狐の尻尾を揺らす女官たち。
長い袖で口元を隠しながら、私の様子を見て笑っている。
「ああ、せいせいした」
そしてその隣には、冷酷に目を細める九尾妃がいた。
彼女の目には、かつての優しさは微塵もない。汚い獣を見るような視線が、私を真っ直ぐに射抜いていた。
「夜魔大帝が拾ってきた野良猫の世話なんて、ずうっと嫌だったの」
大帝の庇護を失った私に、彼女を繋ぎとめる魅力は何もないのだと、肌で理解した。
大帝が玉座を追われ、私が同じ「妃」という立場に落ちた途端、彼女は本来の残酷な正体を現した。
「九尾妃……なんで、こんな……」
溺れてしまう。絹の寝間着が水を吸って、ぐいぐいと水底に引きずり込まれる。
九尾妃はそんな私を見ながら嗤っている。冷たい水の中でもがく私の手は、誰につかまれることもなくじわじわと沈んでいった。
「お前、あの白狼帝と旧知の仲のようね。正妃の座を狙うなら——一番に潰しておかないとねえ」



