冥府後宮で十五年、幼馴染は白狼帝になって迎えにきました

 「とと様」がお帰りになられると、九尾妃が私の部屋を訪れる。
 
「冥花様、朝がまいりました。お召し替えをいたしましょうね」
 
 そう言って微笑む彼女は、その名の通りふさふさとした狐の尾を持つ、嫋やかで愛らしい女性だった。
 透き通るような白い肌に、切れ長の艶やかな瞳。彼女は、とと様が冥府後宮に囲う妖の妃の一人である。

「艶めいた黒髪が素敵ですこと、羨ましいですわ」
「そんなこと……九尾妃の亜麻色の髪も、美しくて素敵です」

 九尾妃はとても甲斐甲斐しく私の世話を焼いてくれる、私の大好きな妖のひとりだ。
 温かな湯船で身体を洗い清め、長い髪に香油を梳き込み、肌触りの良い絹の寝間着を着せ掛けてくれる。
 しなやかな指先が触れるたび、ふわりと微かな獣の匂いと、甘い香木が混ざったような不思議な香りがした。

「はい、準備は終わりました。では、朝が来ましたので寝ましょうね」
「ふふ。そうですね。とと様の思し召しの通りに」
 
 身支度を終え、寝台に潜り込む。柔らかな寝台が体を包むと、うとうとと瞼が落ちていく。
 九尾妃は決まって寝物語を聞かせてくれる。彼女が語るのはいつも決まって「現世」の物語だった。

「——今、現世では恐ろしい男が名を馳せているそうですわ」

 枕元に座り、九尾妃はくすくすと上品に笑いながら語り始めた。

「元は名もなき野良犬のような生まれ。それが今や、狼へと成り上がった男。人々は彼を『白狼将軍』と呼んで恐れているとか」
「白狼将軍。狼のように獰猛なのでしょうか」
「ええ。女子供であっても容赦せず斬り伏せ、数多の武将の頸を狩った……血も涙もない、悪鬼のような男だそうですわ」

 数多の頸を狩った。その響きに、思わず背筋が冷たくなる。
 そう言えば、私がいた現世に戦はあったのだっけ。そんな当たり前の常識すら、霞にかかったように遠くに消えていく。冥府に長くいると、それまでの記憶がどんどんと失われていく。
 でも、それでもいいと思った。忘れてしまうような人生なら、きっとつまらないものなのだから。

「血の匂いを纏う、残虐で恐ろしい男……ふふ、魅力的ですよねえ」
 
 九尾妃は嬉しそうに笑う。
 ああ、このひとはやはり妖なのだ。人の理とは違う、残酷なものを好む本性がある。
 とと様の教えが脳裏をよぎり、私は衾を握りしめて身をすくませた。

「……私は、優しい人が好き。とと様みたいに」
 
 少しの恐れを隠してそう強がると、九尾妃はきょとんとした後、鈴を転がすようにクスクスと笑った。

「まあ。夜魔大帝がお優しいのは、冥花様にだけですわ」
「そうかな、でも——」

 本当に、心から優しいひとなんだよ。そう言おうとした時——
 星が、落ちた。

「え……?」

 唐突に、視界が真っ白に染まった。冥府には空がない。星もない。
 それなのに、窓の外は巨大な光の塊が冥府の暗闇を引き裂いて落ちてきたかのようだった。
 世界が光に包まれ、次の瞬間、地鳴りのような轟音が響き渡る。

「きゃあっ!」
「冥花様!」

 激しい揺れに寝台から転げ落ちる。九尾妃も自分の頭を押さえて衝撃に耐えている。
 直後、乱暴な音を立てて、部屋の重厚な扉が蹴り破られた。

「何者!?」

 九尾妃が鋭い声を上げる。そこに立っていたのは、剣を提げた見知らぬ兵士たちだった。
 冥府の衛兵ではない。現世の武具をまとった荒々しい彼らは、土足で私の部屋へと踏み込んでくる。

「聞け! 先刻、大帝は帝位を退いた!」
「なっ……!?」
「新たな皇帝陛下が即位されたのだ! 新たな帝は、夜魔大帝の娘を所望している」

 兵士の一人が高らかに宣言する。その言葉に、目の前が真っ白に染まった。

(とと様が帝位を去った? まさか、冥府の絶対的な帝王であるあの方が……)

 呆然とする私と九尾妃を逃がすまいと、兵士たちが剣を構えて私たちを囲む。
 どくん、と心臓がはねる。
 この光景を、私は知っている——

「何を言っている!? 新たな帝とは——」
「白狼陛下、万歳!」
「我らが白狼陛下、万歳!」

 九尾妃の声をかき消し、怒号のような歓呼が、冥府の静寂を引き裂いていく。
 興奮する兵たちは道を開け、一人の男を通した。
 白銀の髪に、亡霊のように白い肌。握った剣には真っ赤な血が滴っている。金色の瞳はぎろりと輝き、まるで現世の一番星の様。

「白狼、将軍——」
 
 九尾妃がぽつりとつぶやいた。彼女は新しい帝の正体を知ると、うっとりと頬を染めている。
 現世にいる悪鬼、人殺しの白狼将軍。恐ろしい男が、現世の命を終えて冥府にやってきたのだ。
 でも、私は彼を知っている。
 優しかった彼の瞳を、知っている。
 
「太狼……」
「久しいな、姫様」
 
 現世ではどれほどの時が経っていたのだろう。
 かつての幼馴染は、うんと大人になって、恐ろしい男になって、私の前に戻ってきた。