冥府後宮で十五年、幼馴染は白狼帝になって迎えにきました

 光の川を渡りきった瞬間、視界が真っ白に染まり——次に目を開けた時、私は薄暗く、息苦しい場所にいた。

「ごほっ、ごほ……」
 
 むせ返るような香の香りと、喉の奥にへばりつくような微かな毒の匂い。
 ここは、現世の座敷牢だ。
 体が重い。私の体はやせ細り、弱り切っている。
 目の前には、白銀の刀を握り締め、涙をこぼして震えている十歳の少年——太狼の姿があった。

『太狼、命令です。私を……殺しなさい』

 たった今、私の口からこぼれ落ちたばかりのその言葉が、冷たい牢の中に響いて消える。
 そうだ。私たちは戻ってきたのだ。私が絶望に負け、過ちを犯した「その瞬間」に。

「……仰せのままに、我が君」

 太狼が絶望に染まった瞳で刀を振り上げる。
 私は力を振り絞り、必死に手を伸ばして、太狼をぎゅうと抱きしめた。

「冥花様……ッ!?」
「ごめんなさい、太狼……っ。ごめんなさい」

 太狼の背は、白狼帝の頃から縮んでいる。けれど暖かさは変わらない。懐かしい体温に、私はポロポロと涙を流しながら首を横に振った。

「もう間違えない。私……生きたい。生きて、あなたと一緒にいたい……っ!」
「っ……!」
「ごめんなさい、弱い私を許して。私は、生きます……!」

 私の言葉に、太狼の目から堰を切ったように嗚咽がこぼれだした。

「ああ……ああっ! 冥花様、俺は……!」
 
 白銀の刀が床に落ちる。太狼は私の小さな体を壊れるほどきつく、子供のように声を上げて泣きながら抱きしめた。

「あなたを、助けたいのに……! その力が、俺には無くて……!」
「私にも、何の力もない。だけど——」
 
 私は弱り切った体に力を籠め、立ち上がる。
 生きている。立てる。ならば、どこにでも行けるはずだ。
 
「ここを抜け出しましょう……! 二人で、絶対に生きて逃げよう」
 
 太狼の温かい涙が私の肩を濡らす。

「今度こそ、俺も間違えない。あなたを絶対に守り抜くから……っ」

 死を待つしかなかった暗い座敷牢の中で、私たちは互いの温もりを確かめ合うように、いつまでも強く抱きしめ合った。
 もう、後悔はしない。冥府の果実も、偽りの女帝の座もいらない。
 二人で手を取り合い、生きていくのだ。
 私たちはひとりしきり泣きあった後、座敷牢を後にする。
 何人もの人間が私たちを追うけれど、決して捕まることはなかった。狼と猫は、どこまでも自由に野をかけたのだった。

 ◇ ◇ ◇

 ——それから、十五年の月日が流れた。

「白狼帝、万歳!」
「白狼帝、万歳! 美しき正妃様に、万歳!!」

 雲一つない青空の下、大通りを埋め尽くす民衆の歓声が、空を震わせるように響き渡っていた。
 今日は、過酷な政争と戦乱を平定した若き英雄が、ついに現世の新たな皇帝として即位する日。

「疲れていないか? 俺の美しい后」

 玉座の上で、隣に座る偉大な皇帝——太狼が、優しく私の腰を引き寄せた。
 彼の髪は美しい黒髪のまま。けれど人々は彼を白狼帝と呼ぶ。そのことが少しおかしくて、私はくすりと笑った。
 太狼の表情は自信と誇りに満ち溢れ、私を見つめる金色の瞳には、とろけるような深い愛情だけが宿っている。

「ふふ、平気よ。あなたとずっと一緒に生きてこられたのだもの。これくらい何でもないわ」

 私が微笑み返すと、太狼は破顔し、人々の前であるにも関わらず私の額に甘く口付けを落とした。
 民衆からさらに割れんばかりの歓声が上がる。

「美しき夫婦に、幸あれ!」
 
 道を誤らず、共に生き抜いた私たち。
 十歳の子供だった私たちは、彼と同じ歳を重ね、二十五歳の大人になった。
 今はもう、彼に軽々と抱き上げられて「軽いな」とからかわれるような子供ではない。
 私の幼馴染は現世の真の『白狼帝』となり、私はかつての偽りの女帝ではなく、彼にただ一人愛される『正妃』として、この場所に立っているのだ。

「にゃあん」

 ふと、膝元で愛らしい鳴き声がした。
 真っ黒な毛並みの猫が、私のひざ元でぐるぐると喉を鳴らして寝ている。
 その猫はもう人間の言葉を喋ることはなかったけれど、不思議な『二つの尾』をゆらゆらと揺らしている。

「とと様……ありがとう」

 私が心の中でそっと呟いても、黒猫は答えない。ただ「ふあん」とあくびをして再び眠りについた。
 
「冥花」

 太狼が私の手を、きゅっと優しく握り直す。
 見上げれば、春の柔らかな風に乗って、薄紅色の桜がどこまでも美しく舞い散っていた。
 十五年の時を経て、私たちはついに、本当の幸せを手に入れたのだ。

「愛している」
「私もです。白狼陛下」