冥府後宮で十五年、幼馴染は白狼帝になって迎えにきました

 今は昔。場所は——地獄。
 冥府に迷い込んだ私は、暗く冷たい河のほとりで、ひどい飢えと渇きに震えていた。

「おなかすいたね、太狼(たろう)
「……お辛くはありませんか、冥花(めいか)様」
「辛いけど……でも不思議。なんだか嫌な感じはしないの」
  
 近くにいるのは側仕えの太狼だけ。歩いても歩いても、見える景色は暗闇と長い川ばかり。
 冥府に空がないとは知らなかった。天は暗幕で覆ったかのように暗く、星ひとつない。
 現世の光はどこにもなく、私たちはただ冷え切った手を握り合って、あてもなく歩くしかなかった。

「きゃあっ」
「姫様!」
 
 地面にはどこの誰のかわからない髑髏が至る所に落ちていて、足を取られる。
 ああ、と思った時にはもう遅かった。視界がぐるりと回って、目の前に地面が見える。
 膝の辺りの着物にうっすらと血が滲んで、ああ、服を汚して怒られてしまうとぼんやりと思った。

「やっぱりヤダ! もう歩けない!」
「ですが、いつまでもここにいるわけには参りません」
「太狼、おぶって!」

 何もかもが嫌になって、手足を投げ出して地面に転がる。
 まるで赤子のように駄々をこねたら、太狼は黙っておんぶをしてくれた。してやったり。私はこっそりほくそえんで、太狼の背中にそっと手を回す。

「えへへ、太狼は優しいね」
「俺は冥花様の従者ですから」
「私が貴族じゃなかったら、太狼は優しくしてくれないの?」
「その質問は、意地が悪いですよ」
 
 こんなふうに我儘を言って太狼を困らせるのはいつぶりだろうか。もう十歳になったのだから慎みを持たないと、と思いつつ、太狼相手だといつも甘えてしまう。
 同い年なのに、太狼の背中は大きい。太狼は背が高いこともあって、まるで大人のような表情をすることが多かった。青みがかった黒髪を結い上げ、金色の瞳はまっすぐに前を向いている。あと十年もしたら宮中を騒がせる美男子になる、と侍女が言っていたのを思い出す。

(太狼が大人になる時、私は隣にいるのかな)
 
 答えのない問いが頭に浮かんだ。未来のことなどわからない。わかるのは、思い通りにならないということだけ。
 ぶるぶると頭を振って不安な気持ちを追い出す。
 私はあなたの金の瞳が好き、と言うと、太狼はいつも照れて目を伏せてしまう。
 まるで狼のように精悍で、美しい男の子

「……立場など、関係なく。俺はあなたに優しくあるよう努めます」
「太狼は、とっても優しいもんね」
「あなたにだけですよ」

 私はこの時、不謹慎だけど、ずっとこのまま太狼と歩いていたいなと思った。
 太狼の大きな背中に身を委ねて、行く当てもなく彷徨い続ける。ここが冥府でも構わない。太狼の隣が、私の安心できる場所だから。

 ——だから、決してやってはいけなかった。

「お腹が空いたのかい?」

 ——その手を、取ってはいけなかった。

「これをお食べ」
 
 誰の手だったのか、今となっては思い出せない。
 ただ、その手のひらには、宝石のように透き通った紅い菓子が載せられていた。
 鬼灯のようにも、石榴のようにも見えるそれからは、現世のどんな花よりも芳しい香りが漂っていた。
 抗いがたい香りに誘われ、私はふらふらと手を伸ばす。

「冥花様っ——!」

 太狼が私を止める声がする。
 けれど私の瞳はもう紅い菓子に夢中で、誰の話も耳に入らなかった。
 
「いただきます」

 それを口に含んだ瞬間の、甘露のようなくちどけだけは、今でも鮮明に覚えている。
 飴細工のように舌の上でほろりと崩れると、中からとろけるような甘い蜜が溢れ出した。ひどい渇きも、足の痛みも、現世の恐ろしい記憶すらも、その甘さがすべてを嘘のように消し去ってくれた。

 もっと、もっと欲しい。
 私は夢中でその菓子を飲み込んだ。

「莫迦な子」

 誰かが嗤う。ああ、それは、私自身だったのかもしれない。
 冥府の食事を口にしたものは、現世に戻ることはできない。
 振り返ったとき、太狼はいなかった。