今は昔。場所は——地獄。
冥府に迷い込んだ私は、暗く冷たい河のほとりで、ひどい飢えと渇きに震えていた。
「おなかすいたね、太狼」
「……お辛くはありませんか、冥花様」
「辛いけど……でも不思議。なんだか嫌な感じはしないの」
近くにいるのは側仕えの太狼だけ。歩いても歩いても、見える景色は暗闇と長い川ばかり。
冥府に空がないとは知らなかった。天は暗幕で覆ったかのように暗く、星ひとつない。
現世の光はどこにもなく、私たちはただ冷え切った手を握り合って、あてもなく歩くしかなかった。
「きゃあっ」
「姫様!」
地面にはどこの誰のかわからない髑髏が至る所に落ちていて、足を取られる。
ああ、と思った時にはもう遅かった。視界がぐるりと回って、目の前に地面が見える。
膝の辺りの着物にうっすらと血が滲んで、ああ、服を汚して怒られてしまうとぼんやりと思った。
「やっぱりヤダ! もう歩けない!」
「ですが、いつまでもここにいるわけには参りません」
「太狼、おぶって!」
何もかもが嫌になって、手足を投げ出して地面に転がる。
まるで赤子のように駄々をこねたら、太狼は黙っておんぶをしてくれた。してやったり。私はこっそりほくそえんで、太狼の背中にそっと手を回す。
「えへへ、太狼は優しいね」
「俺は冥花様の従者ですから」
「私が貴族じゃなかったら、太狼は優しくしてくれないの?」
「その質問は、意地が悪いですよ」
こんなふうに我儘を言って太狼を困らせるのはいつぶりだろうか。もう十歳になったのだから慎みを持たないと、と思いつつ、太狼相手だといつも甘えてしまう。
同い年なのに、太狼の背中は大きい。太狼は背が高いこともあって、まるで大人のような表情をすることが多かった。青みがかった黒髪を結い上げ、金色の瞳はまっすぐに前を向いている。あと十年もしたら宮中を騒がせる美男子になる、と侍女が言っていたのを思い出す。
(太狼が大人になる時、私は隣にいるのかな)
答えのない問いが頭に浮かんだ。未来のことなどわからない。わかるのは、思い通りにならないということだけ。
ぶるぶると頭を振って不安な気持ちを追い出す。
私はあなたの金の瞳が好き、と言うと、太狼はいつも照れて目を伏せてしまう。
まるで狼のように精悍で、美しい男の子
「……立場など、関係なく。俺はあなたに優しくあるよう努めます」
「太狼は、とっても優しいもんね」
「あなたにだけですよ」
私はこの時、不謹慎だけど、ずっとこのまま太狼と歩いていたいなと思った。
太狼の大きな背中に身を委ねて、行く当てもなく彷徨い続ける。ここが冥府でも構わない。太狼の隣が、私の安心できる場所だから。
——だから、決してやってはいけなかった。
「お腹が空いたのかい?」
——その手を、取ってはいけなかった。
「これをお食べ」
誰の手だったのか、今となっては思い出せない。
ただ、その手のひらには、宝石のように透き通った紅い菓子が載せられていた。
鬼灯のようにも、石榴のようにも見えるそれからは、現世のどんな花よりも芳しい香りが漂っていた。
抗いがたい香りに誘われ、私はふらふらと手を伸ばす。
「冥花様っ——!」
太狼が私を止める声がする。
けれど私の瞳はもう紅い菓子に夢中で、誰の話も耳に入らなかった。
「いただきます」
それを口に含んだ瞬間の、甘露のようなくちどけだけは、今でも鮮明に覚えている。
飴細工のように舌の上でほろりと崩れると、中からとろけるような甘い蜜が溢れ出した。ひどい渇きも、足の痛みも、現世の恐ろしい記憶すらも、その甘さがすべてを嘘のように消し去ってくれた。
もっと、もっと欲しい。
私は夢中でその菓子を飲み込んだ。
「莫迦な子」
誰かが嗤う。ああ、それは、私自身だったのかもしれない。
冥府の食事を口にしたものは、現世に戻ることはできない。
振り返ったとき、太狼はいなかった。
冥府に迷い込んだ私は、暗く冷たい河のほとりで、ひどい飢えと渇きに震えていた。
「おなかすいたね、太狼」
「……お辛くはありませんか、冥花様」
「辛いけど……でも不思議。なんだか嫌な感じはしないの」
近くにいるのは側仕えの太狼だけ。歩いても歩いても、見える景色は暗闇と長い川ばかり。
冥府に空がないとは知らなかった。天は暗幕で覆ったかのように暗く、星ひとつない。
現世の光はどこにもなく、私たちはただ冷え切った手を握り合って、あてもなく歩くしかなかった。
「きゃあっ」
「姫様!」
地面にはどこの誰のかわからない髑髏が至る所に落ちていて、足を取られる。
ああ、と思った時にはもう遅かった。視界がぐるりと回って、目の前に地面が見える。
膝の辺りの着物にうっすらと血が滲んで、ああ、服を汚して怒られてしまうとぼんやりと思った。
「やっぱりヤダ! もう歩けない!」
「ですが、いつまでもここにいるわけには参りません」
「太狼、おぶって!」
何もかもが嫌になって、手足を投げ出して地面に転がる。
まるで赤子のように駄々をこねたら、太狼は黙っておんぶをしてくれた。してやったり。私はこっそりほくそえんで、太狼の背中にそっと手を回す。
「えへへ、太狼は優しいね」
「俺は冥花様の従者ですから」
「私が貴族じゃなかったら、太狼は優しくしてくれないの?」
「その質問は、意地が悪いですよ」
こんなふうに我儘を言って太狼を困らせるのはいつぶりだろうか。もう十歳になったのだから慎みを持たないと、と思いつつ、太狼相手だといつも甘えてしまう。
同い年なのに、太狼の背中は大きい。太狼は背が高いこともあって、まるで大人のような表情をすることが多かった。青みがかった黒髪を結い上げ、金色の瞳はまっすぐに前を向いている。あと十年もしたら宮中を騒がせる美男子になる、と侍女が言っていたのを思い出す。
(太狼が大人になる時、私は隣にいるのかな)
答えのない問いが頭に浮かんだ。未来のことなどわからない。わかるのは、思い通りにならないということだけ。
ぶるぶると頭を振って不安な気持ちを追い出す。
私はあなたの金の瞳が好き、と言うと、太狼はいつも照れて目を伏せてしまう。
まるで狼のように精悍で、美しい男の子
「……立場など、関係なく。俺はあなたに優しくあるよう努めます」
「太狼は、とっても優しいもんね」
「あなたにだけですよ」
私はこの時、不謹慎だけど、ずっとこのまま太狼と歩いていたいなと思った。
太狼の大きな背中に身を委ねて、行く当てもなく彷徨い続ける。ここが冥府でも構わない。太狼の隣が、私の安心できる場所だから。
——だから、決してやってはいけなかった。
「お腹が空いたのかい?」
——その手を、取ってはいけなかった。
「これをお食べ」
誰の手だったのか、今となっては思い出せない。
ただ、その手のひらには、宝石のように透き通った紅い菓子が載せられていた。
鬼灯のようにも、石榴のようにも見えるそれからは、現世のどんな花よりも芳しい香りが漂っていた。
抗いがたい香りに誘われ、私はふらふらと手を伸ばす。
「冥花様っ——!」
太狼が私を止める声がする。
けれど私の瞳はもう紅い菓子に夢中で、誰の話も耳に入らなかった。
「いただきます」
それを口に含んだ瞬間の、甘露のようなくちどけだけは、今でも鮮明に覚えている。
飴細工のように舌の上でほろりと崩れると、中からとろけるような甘い蜜が溢れ出した。ひどい渇きも、足の痛みも、現世の恐ろしい記憶すらも、その甘さがすべてを嘘のように消し去ってくれた。
もっと、もっと欲しい。
私は夢中でその菓子を飲み込んだ。
「莫迦な子」
誰かが嗤う。ああ、それは、私自身だったのかもしれない。
冥府の食事を口にしたものは、現世に戻ることはできない。
振り返ったとき、太狼はいなかった。



