政略結婚の花婿は、前世から私を探していた行方不明の武士様でした。 ー幾世の契りー




 婚礼から一年が過ぎた。三つ並び矢の家紋がある城の春は、都より少し遅れて訪れる。
 冬のあいだ山々を覆っていた冷たい風がやわらぎ、土塁の裾には小さな草花が顔を出す。城の下を流れる川の水は、雪解けを集めて透明に光り、朝になると鳥たちが堀端の木立で賑やかに鳴いた。

 冬景色を見ていれば背後から女房の声がした。
「奥方様、朝露でお足元が濡れます」
「大丈夫です。少しだけ、この花を見ていたくて」

 城へ嫁いだ当初は侍女たちは清瀬を『都から来た姫君』と呼び、遠巻きにしていた。清瀬自身も、戸惑っていた。御所で女房として暮らしたことはあっても、城主の妻として城を預かることは初めてだった。
 誰に何を頼み、どこまで自分で決めてよいのか。領内の村から女が訪ねてくれば、どう話を聞けばよいのか。蓄えの米が足りぬと報せが来れば、どのように清十郎へ伝えればよいのか。
 何度も迷ったし何度も、自分には務まらないと思った。けれど清十郎は、そのたびに言った。


 『――清瀬殿が、この城にいてくださるだけでよいのです。』


 最初は、その言葉に甘えてもよいのか分からなかった。しかし清瀬は、ただそこにいるだけの妻になりたくはなかった。
 清十郎が守る城ならば、自分もまた守りたい。城で働く女たちの名を覚えた。病の子を抱えた村の女の話を聞き、薬草を分けた。
 冬の備えのために布を集め、弓の稽古で指を傷める若い兵たちのために薬草を漬けた布を用意した。
 清十郎がかつて自分の指へ巻いてくれた、あの白い布を思い出しながら。少しずつ、城の人々は清瀬を「奥方様」と呼ぶようになった。

 都から来たよそ者の姫君としてではない。城で共に暮らす人として。
 清瀬は外を見つめながら、静かに微笑んだ。

「清瀬」

 聞き慣れた声が、庭の入口からした。振り返ると、清十郎が立っていた。
 朝の稽古を終えたばかりらしく、直垂の袖には薄く土がつき、髪にも春の風が乱した跡が残っている。背には弓を負い、腰には太刀を帯びていた。清瀬の胸は、今でも彼を見るたびに少しだけ早く打つ。

 夫婦となって一年が経っても、それは変わらなかった。
「お戻りでしたか」
「あぁ、ただいま」
 清十郎は、清瀬の前まで歩いてくる。そして、清瀬を見つめた。
「私は、清瀬がこの城に来てくださってから、春を待つことが怖くなくなりました。愛おしく、可愛らしい妻を迎えられて毎日が春のようです」
 清瀬は、頬が熱くなるのを感じた。清十郎は、時折こうして、何の前触れもなく心を揺らすことを言う。
 言った本人は真剣で、からかっているわけではない。だから余計に困るのだ。
「朝から、そのようなお言葉を申されては」
「いけませんでしたか」
「いけないわけでは……ありませんけど。でも」

 清瀬が視線を逸らすと、清十郎は少し笑った。以前の彼なら、人前でこんなふうに笑うことはなかった。

 今も城主として人前に立つときは厳しい顔をする。兵たちが怠ければ容赦なく叱り、領内で争いが起きれば、誰より早く駆けつける。
 けれど清瀬の前では、ときどき昔のように不器用で、優しい顔を見せる。
 清瀬だけが知る顔だった。

「弓の稽古は、いかがでしたか」
「若い者たちが、ようやく私の言うことを聞いてくれるようになりました」
「以前は聞かなかったのですか」
「奥方様に格好よいところを見せたいのか、皆、無理に強い弓を引こうとするのです」
「私のせいですか」
「清瀬のせいではありません」
 清十郎は笑った。
「ですが、奥方様が見てくださると思えば、皆、張り切るのでしょう」
「では、今度、しっかりと稽古を拝見してもよろしいでしょうか」
「もちろんです」

 清十郎はすぐに答えた。それから、少しだけ声を落とす。

「ただ、あまり私以外を褒めないでください」
 清瀬は、思わず彼を見た。
「清十郎様」
「……失礼いたしました」
 清十郎は、わずかに気まずそうに視線を外した。
「城主たる者が、そのような狭い心ではいけませんね」

 清瀬は笑いをこらえきれなかった。都にいたころは、何事にも動じぬ人だと思っていた。
 危険な夜の庭に立ち、清瀬を背に庇い、護良親王のお側を守るために命を懸けた人。

 そんな彼が今、清瀬が若い兵を褒めることを気にしている。可笑しくて、愛しかった。
「では、清十郎様だけを褒めます」
 清瀬は言った。
「清十郎様は、弓がお上手です。お強くて、お優しくて、誰よりも頼りになる城主様です」
 清十郎は、完全に言葉を失った。その耳が、少し赤くなっている。
 清瀬は初めて、彼を言葉で困らせることができたのだと気づいた。
「き、清瀬」
「はい」
「……そのように言われると、私は何も返せなくなります」
「いつも私ばかり困らせておられるので、たまにはよろしいでしょう」
 清十郎は苦笑した。
「敵いませんね」
 そう言いながら、彼は清瀬の手を取った。庭には侍女たちが少し離れたところにいる。
 それでも今の二人は、誰かに隠れて手を取る必要はなかった。
 清十郎の手は、相変わらず大きく、弓を引くために硬い。
 けれど清瀬の手を握るときだけは、今も驚くほど優しい。
「手が冷たい」
「朝の庭に出ていたからでしょう」
「お一人で出られるときは、羽織るものを持ってください」
「分かっております」
「本当に?」
「本当です」
「では、次からは私が持ってまいります」
「清十郎様は、城主のお務めがおありでしょう」
「清瀬殿のために羽織を持つことも、私には大切な務めです」
 清瀬は、胸の奥が温かくなるのを感じた。
 以前の自分なら、そんな言葉を受け取ることが怖かったかもしれない。
 大切にされることに慣れていなかった。

 父の家では、役に立つかどうかで自分の価値を量られることが多かった。御所では、女房として間違いなく務めを果たすことが求められた。
 だから、ただ自分が清瀬であるというだけで、大切にされることが、時に信じられなかった。
 けれど今は知っている。
 誰かを大切に思い、その人から大切にされることは、弱さではない。

 自分で選び取った生き方なのだ。



  ***
 

 昼過ぎ、清瀬のもとへ都から文が届いた。差出人は姉だった。清瀬は、自室で慎重に封を開いた。
 姉の文字は、昔と変わらず整っている。

 斯波家での暮らし。季節の移ろい。夫である斯波家の嫡子が、近ごろ領地のことで忙しくしていること。そして、清瀬のことを案じていること。
 文の最後には、こう記されていた。

【父上も、清瀬が伊賀で穏やかに暮らしていると聞き、安堵しておられます】

【口にはなさいませんけれど、あなたが良い方と巡り会えたことを、きっと喜んでおいでです。】


 清瀬は、その一文を何度も読んだ。父が本当にそう思っているのかは分からない。同じ藤原の血を持つ伊東家の縁を結べたことを喜んでいるだけかもしれない。
 けれど、今の清瀬には、以前ほど父の真意を知りたいという気持ちはなかった。

 父がどう思うかによって、自分の幸せが決まるわけではない。清瀬は、すでに自分の足で、ここへ来た。
 婚礼は家によって整えられたものだった。
 しかしあの日、清瀬は自分の意思で、清十郎の手を取った。
 それだけは誰にも奪えない。
 文を読み終えたあと、清瀬は筆を取り、姉への返事を書いた。

【姉上。私はこちらで、元気に暮らしております。城の山は深く、冬は厳しいものですが、春になれば木瓜が咲きます。どうか姉上も、お身体を大切になさってください。】

 しばらく迷ってから、最後に一文を加えた。

【私も、ここで自分の望む人生を生きてまいります。】


 筆を置いたとき、清瀬は静かに息を吐いた。それは父へ向けた言葉ではない。
 姉へ、清十郎へ、そして何より自分自身へ向けた誓いだった。

 夜になり、城は静かになった。清十郎は政の話を終え、ようやく奥の間へ戻ってきた。
 清瀬は灯火のそばで、何かを縫っていた。

「まだ起きておられたのですか」
「清十郎様に、お渡ししたいものがありまして」

 清十郎は、清瀬の前に座った。

「私に」
「はい」

 清瀬は、丁寧に畳んだ布を差し出した。濃い藍色の弓袋である。
表には、控えめな色糸で三矢の紋が刺繍されていた。
 清十郎は、しばらく言葉を失った。

「清瀬殿が、縫われたのですか」
「お上手とは申せませんが」
「そんなことはありません」
 清十郎は、弓袋を大切そうに手に取った。刺子がされた三矢の紋を、指でそっとなぞる。
「これは……私のために」
「はい」
「大切にします」
「弓を守るものですから、使ってください」
「使います」
 清十郎は笑った。
「大切にします」

 清瀬も笑った。彼が本当に嬉しそうにしているのが分かる。それだけで、何日もかけて縫った甲斐があった。

「三矢の紋を見るたび、清瀬殿を思い出します」
「今も、こうして目の前におりますのに」
「目の前におられても、思います」
 清十郎は、真顔で言った。清瀬は、また頬が熱くなる。
「清十郎様は、近ごろそのようなお言葉が多すぎます」
「以前は、言えませんでしたから」
「以前?」
「都にいたころです」
 清十郎は、少し寂しそうに笑った。
「清瀬殿と出会ってから、言いたいことは多くありました。けれど、何を言っても、あなた様を危うくするのではないかと思っていた」
 清瀬は、彼の言葉を静かに聞いた。

「私には、守るものが何もないと思っていました」
 清十郎は続けた。
「名も、土地も、明日の命さえも、確かなものではなかった。だから、あなた様に何かを約束する資格があるのか、分からなかった」
「でも、約束してくださいました」
「はい」
「帰ると」

 清十郎は、清瀬を見つめた。

「帰りました」
「はい」
「ですが、清瀬」

 彼は、ゆっくりと手を差し出した。

「これからは、帰るだけでは足りません」
 清瀬は、その手を取った。
「何が、足りないのですか」
「あなた様と、生きることです」

 清瀬の胸が、静かに満たされていく。彼の言葉は、以前のような切迫した約束ではない。
 戦へ向かう前の「必ず帰る」ではない。朝、弓を持って城を出て、夕刻には戻る。冬の備えを考え、村の者たちと話し、時には意見を違えながらも、共にこの城を守る。

 そんな日々を、一緒に積み重ねていくという言葉だった。

「私もです」
 清瀬は答えた。
「私は、清十郎様と生きます」
 清十郎は、そっと清瀬の指先へ口づけた。
 それは激しいものではなかった。長い旅を終えた人が、ようやく帰る場所へ触れるような、静かで大切な口づけだった。
 清瀬は息を止めた。触れられた指先から、胸の奥まで熱が広がっていく。
 清十郎は、清瀬の表情を見て、少しだけ不安そうに眉を寄せた。

「驚かれましたか」
「……少し」
「申し訳ありません」
「でも」
 清瀬は、彼の手を握り直した。
「嫌ではありません」
 清十郎の目が、やわらかく細められる。
「それなら、よかった」
 そして彼は、清瀬の額へそっと口づけた。
 清瀬は目を閉じた。夢の中では、いつも霧が二人を隔てていた。男の顔は見えず、手も届かず、言葉だけが残った。
 けれど今は違う。清十郎の温もりがある。
 彼の息遣いが近くにある。
 自分の名を呼ぶ声が、夢ではなく現の中で響いている。
「清瀬」

 清十郎が、初めて肩書きも敬称もつけずに名を呼んだ。清瀬は、ゆっくりと目を開けた。

「はい」
「お帰りなさい、と言ってくださいますか」
 その言葉に、清瀬は少しだけ目を潤ませた。彼は、今も帰ることを求めている。けれどそれは、もう失われた過去に縛られた願いではない。
 明日も、明後日も、何度でも帰ってくるための言葉だ。

「ただいま戻りました、清瀬」

 その夜、清瀬は久しぶりに夢を見た。春の野に霧はなかった。
 山桜が風に揺れ、花びらが陽の光の中を舞っている。
 かつて甲冑をまとい、血を流していた男は、もう傷を負っていなかった。
 彼は弓を置き、清瀬へ手を差し出す。清瀬は迷わず、その手を取った。
 男の顔が、はっきりと見える。清十郎だった。
 けれどそれは、遠い昔の誰かであり、今ここにいる清十郎でもあった。
 男は何も言わない。
 ただ、清瀬の手を握り、春の野を共に歩き出す。清瀬もまた、もう振り返らなかった。
 待つための夢は終わった。

 これからは、共に歩くための夢が始まる。翌朝、清瀬が目を覚ますと、障子の向こうには柔らかな春の光が差していた。
 隣には、眠る清十郎がいる。清瀬は、そっと彼の手を探した。
 大きな手が、すぐに清瀬の指を包む。
 清十郎は目を閉じたまま、眠たげな声で言った。

「清瀬」
「はい」
「どこにも行かないでください」

 清瀬は、微笑んだ。

「参りません。あなた様も、行かないでくださいね」
「本当に」
「本当に」

 清十郎は、安心したように少し笑った。庭では、木瓜の花が朝の風に揺れている。
 前世から受け継がれた証は、もう悲しい別れの形見ではなかった。
 それは二人が、幾世の時を越えて巡り会い、選び直した未来のしるしである。
 清瀬は、清十郎の手を握ったまま、窓の外を見つめた。

 戦の世は、まだ終わらない。

 明日、何が起こるかも分からない。けれど、恐れはなかった。

 待たされるだけの少女だった自分は、もういない。
 帰る人を信じ、帰る場所を守り、同じ道を選んで歩く女が、ここにいる。
 春の風が吹いた。木瓜の花びらが、静かに空へ舞い上がった。



                               終