縁談が正式に決まったと聞かされたとき、清瀬はすぐには返事をできなかった。父の前には、伊賀から届いた書状が置かれていた。
「相手は伊藤家当主の養子であり、城を新しく預かる武士だ」
父は、満足そうに言った。
「私の古い知り合いの家でな。其奴が養子を取ったらしい。そこの養子の妻を探しているからと話が出た。弓の腕が立ち、伊賀で人望もあるという。家柄にも不足はない。おまえにとっても悪い話ではあるまい」
清瀬は、書状へ目を落とした。伊東様……その名を聞くたび、なぜか胸の奥が激しく揺れた。
もしかしたら彼かもしれない。そう期待すればするほど、失うときが怖い。
「相手の方のお名は」
「伊東清十郎という男だ」
父の声が聞こえた。世界が、一瞬止まった。
清瀬は、父の顔を見た。
「……清十郎、様」
「あぁ。同じ名なのが何かおかしいか」
父は怪訝そうに眉を寄せた。
「伊賀の伊東家に養子入りし、城主となる者だ。かつて都にいた同名の武士とは別人であろう」
清瀬は、声を出せなかった。別人……そうなのかもしれない。
けれど、胸もとに隠した木瓜の飾りが、熱を帯びたように感じられた。
清十郎。あの人の名。
夢の中で聞こえなかった名。現実で初めて呼び、二年ものあいだ胸の奥で呼び続けた名。
「婚礼は、ひと月後だ」
父は告げた。
「伊賀へ向かう支度を整えよ」
清瀬は、ゆっくりと頷いた。
「……承知いたしました」
その返事は、父に従うためだけのものではなかった。伊賀へ行く。
伊藤清十郎という人に会う。たとえ別人であったとしても、自分の目で確かめる。
そしてもし、あの人であったなら。今度こそ、夢のように手を伸ばすだけで終わらせない。
婚礼の日、空は晴れていた。伊賀の山々は都とは違う深い緑に包まれている。
城は、華美ではなかった。土塁は高く、堀は深く、城内には武士たちの暮らしの気配があった。木の香り、馬の気配、炊事場から立ちのぼる湯気。
けれど清瀬は、その質素さに不思議な安心を覚えた。ここには、見せかけの華やかさではなく、人が生き、守り、働く温かさがある。
清瀬は白い衣を重ね、髪を整えられながら、胸もとの木瓜の飾りへ触れた。
「姫様、お手が冷とうございます」
付き添いの女房が心配そうに言う。
「大丈夫です」
清瀬は微笑んだ。
「少し、緊張しているだけですから」
けれど本当は、息をすることさえ苦しかった。清十郎様であってほしい。けれど、違っていたらどうしよう。
あの人であったとしても、自分を覚えていなかったら。あるいは、自分だけが過去に囚われていたのだと言われたら。
期待と恐れが、胸の中で入り混じっていた。やがて、儀の始まりを告げる声がした。
清瀬は、俯いたまま座していた。衣擦れの音が近づく。ここの主が入ってくる気配。周囲の者が礼を述べる声。
「伊東家当主の養子、城主・伊東清十郎様にございます」
その声を聞いた瞬間、清瀬の指先が震えた。聞き間違えるはずがない。
低く、静かで、どこか掠れた優しい声。夢の中で、何度も自分を呼んだ声。夜の庭で、帰ると約束した声。清瀬は、ゆっくりと顔を上げた。着物をまとった男が、目の前にいた。
以前より少し日に焼け、頬には薄い傷跡がある。二年前よりも、肩は広く目もとには深い影が刻まれていた。だが、間違えるはずがなかった。
池ノ院清十郎。
護良親王に仕え、鎌倉で消息を絶ったはずの人。清瀬がずっと待っていた人。
「……池ノ院様」
声が震えた。それに周囲の者たちは、聞いたことのない名に不思議に思っただろう。しかし、清十郎は静かに清瀬を見つめた。
「お久しゅうございます、清瀬殿」
その一言で、清瀬の目から涙が溢れた。彼は生きていた。夢の中ではなく、確かに自分の目の前へ。
「なぜ……」
清瀬は、ようやくそれだけ言った。
「なぜ、何も知らせてくださらなかったのですか」
清十郎の瞳が、苦しそうに揺れた。
「申し訳ありません」
「私は……」
清瀬は涙を拭えなかった。
「私は、もう二度とお会いできないのだと思いました。何度も、諦めようといたしました」
「分かっております」
「分かってなど」
「分かっております」
清十郎は、低く、強く言った。
「分かっているからこそ、今すぐ名を名乗ることができませんでした」
周囲には人がいる。
父も、伊東家の者たちも、婚礼を見守る者たちも。だから清十郎は、慎重に声を落とした。
「鎌倉を逃れたあと、私は名を名乗れませんでした。誰が味方で、誰が敵かも分からなかった。都へ文を出せば、あなた様にまで危険が及ぶと思ったのです」
清瀬は、唇を噛んだ。責めたい。もっと早く会いに来てほしかった。けれど、彼の頬に残る傷を見れば、この二年を生き抜くことがどれほど困難だったか、言葉にせずとも伝わってくる。
「伊賀へ辿り着き、伊東家に身を寄せました」
清十郎は続けた。
「養子となり、家紋を賜り、城を任されました。あなた様を迎えに行くための名と場所を得るまで、私は戻れなかった」
「私を……迎えに」
「はい」
清十郎は、清瀬の目を見た。
「……清瀬殿が望まれぬなら、この婚礼を受ける必要もない」
清瀬は、息を呑んだ。彼は、自分に選ばせようとしている。父のように、家のためだと命じるのではない。
武士としての力を持った今でも、清瀬の心を自分のものだと思ってはいない。
「池ノ院様」
清瀬は、涙を拭った。
「いいえ」
清十郎が、少しだけ驚く。清瀬は、胸もとから小さな包みを取り出した。
白い布をほどく。その中には、古びた木瓜の飾りがあった。
「清十郎様」
清瀬は、飾りを両手に載せた。
「これは、お返しいたします」
清十郎は、飾りを見つめた。指先が震えている。
「ずっと、お持ちくださっていたのですか」
「はい」
「捨てずに」
「捨てられるはずがありません」
清瀬は、涙の残る目で笑った。
「これは、私が待つための証ではありませんでした。清十郎様が、必ず戻ると仰ったことを、私が信じるための証でした」
清十郎は、そっと木瓜の飾りを受け取った。その瞬間、彼の指が清瀬の指に触れた。周囲には人がいる。
それでも二人は、ほんの一瞬、指を離せなかった。
「清瀬殿」
「はい」
「私は、あなた様を試したかったのではありません」
「分かっております」
「ただ、恐ろしかった」
清十郎の声が、わずかに震えた。
「私が戻っても、あなた様に許していただけぬのではないかと。二年も何も知らせず、生きているとさえ伝えられなかった私を」
清瀬は、彼の手を見つめた。あの夜、額を寄せながら帰ると誓った手。夢の中で、何度も届かなかった手。
「私は、怒っております」
清十郎の顔が曇った。
「はい、すみません」
「とても、怒っております」
「はい」
「でも」
清瀬は、そっと自分の手を清十郎の手に重ねた。
「戻ってきてくださったことのほうが、ずっと嬉しいのです」
清十郎の目に、初めて涙が浮かんだ。彼はすぐに視線を伏せたが、清瀬には分かった。この人もまた、ずっと怖かったのだ。自分を失うことが。自分が帰る場所を失うことが。
「清瀬殿」
「はい」
「今世では」
清十郎は、清瀬の手を包んだ。
「あなた様のお顔を見て、こうして手を取ることができました」
清瀬は頷いた。
「はい」
「次は、離しません」
その言葉に、清瀬の頬が熱くなった。政略結婚という婚礼の場で言うには、あまりにも甘い言葉だった。
けれど清十郎は真剣で、少しも冗談ではない。清瀬は、彼の手を握り返した。
「私も、離しません」
儀が終わり、人々が席を外したあと。清瀬は、城の一室で夕暮れの庭を眺めていた。
山の向こうに日が沈み、空は淡い茜色に染まっている。戸が静かに開き、清十郎が入ってきた。
今度は婚礼の衣ではなく、落ち着いた色の直垂をまとっている。
「入ってもよろしいでしょうか」
妻となったばかりの相手にさえ、清十郎は尋ねた。清瀬は、少し笑った。
「どうぞ」
清十郎は、清瀬から少し離れたところに座った。その距離が、かえって可笑しくて清瀬はまた笑ってしまう。
「何か、おかしなことを申しましたか」
「いいえ」
清瀬は首を振った。
「ただ、清十郎様は変わられませんね」
「変わりました」
「どこがですか?」
「二年前よりも、あなた様に近づきたいと思っております」
清瀬は、息を止めた。清十郎は、言ってから少しだけ困ったように目を伏せる。
「申し訳ありません。急ぎすぎました」
「いいえ」
清瀬は小さく答えた。
「私も、同じです」
清十郎が顔を上げた。清瀬は、胸もとに手を置いた。
「私はずっと、清十郎様が帰ってこられる日を夢見ておりました。でも、夢の中ではいつも届かなかった」
清十郎は、ゆっくりと手を差し出した。
「今は、届きます」
清瀬は、その手を取った。指を絡めるようにして、しっかりと握る。
今度は、誰の目も気にしなくてよい。
「届きます」
清瀬は答えた。清十郎は、しばらく二人の手を見つめていた。
それから、懐からもう一つ、小さな包みを取り出した。
「これを」
中に入っていたのは、新しい飾りだった。古いものとは違う紋が刻まれている。
だがこちらは、長い歳月にくすんではいない。新しく磨かれ、柔らかな光を放っていた。
「古い証は、前の世からの約束です」
清十郎は言った。
「これは、今世の……私とあなたの家紋です」
清瀬は、飾りを見つめた。
「私に、ですか」
「はい」
「なぜ」
「これは伊東の父からいただいた私の家紋。丸に三つ並び矢です。これからは、待つためではなく」
清十郎は、清瀬の髪へそっと手を伸ばした。触れてよいか尋ねるように、目で問いかける。
清瀬が頷くと、彼は新しく彫られた家紋飾りを、清瀬の髪へ静かに留めた。
「共に生きるための証です」
指先が髪に触れた瞬間、清瀬の胸は甘く震えた。清十郎の手が、ほんの少しだけ頬に触れる。
「よく、お似合いです」
「そのようなことを……急に仰らないでください」
「本当のことです」
清瀬は顔を赤くした。清十郎は、そんな清瀬を見て、やわらかく笑う。その笑みを見ていると、二年分の孤独が少しずつほどけていくようだった。
外では、夜の風が木々を揺らしていた。遠い前世、春の野で別れた二人は、顔を見ることも、手を取ることもできなかった。
男は戦に散り、女は証を抱いて待ち続けた。しかし今世で、木瓜の証は再び二人の手に戻った。清瀬は、夫となった清十郎の手を握る。
「清十郎様」
「はい」
「もう、夢の中のように待たなくてもよいのですね」
清十郎は、清瀬の手を包み、まっすぐに答えた。
「はい。これからは、毎朝、あなた様のおそばで目を覚ましたい」
清瀬は微笑んだ。そして、初めて自分から、清十郎の肩へそっと寄り添った。
彼の身体が一瞬だけ驚いたように強ばり、それから、清瀬を大切なものに触れるように抱き寄せる。
強くはない。けれど、二度と失わないと伝えるような腕だった。
清瀬は目を閉じた。夢の霧は、もうどこにもなかった。
前世から待つ女だった清瀬は、今、自ら選んだ人のもとで確かに手を取り合っている。
木瓜の証は、遺した者の手に戻った。そして二人の想いは、幾世を越えて、ようやく一つに結ばれた。
