護良親王の死から、二年近い月日が流れた。清瀬は実家へ戻されたあと、以前よりいっそう静かな暮らしを送っていた。
父は、清瀬を再び宮へ上げることはなかった。今や家は姉の綾の婚姻を通じ、斯波氏ひいては足利方との縁を深めている。清瀬がかつて護良親王の側室に仕えていたことは、家にとって都合のよいときには宮家へ女房を出した由緒とされ都合の悪いときには触れられぬ過去となった。清瀬は、そのどちらにも口を挟まなかった。
朝は仏前に水を供え、母屋の帳簿を整え女房たちの相談に乗り、父の命じるままに文を写す。変わらず家にとって使い道のある娘であることには変わりない。
ただ、一つだけ違うことがあった。清瀬は、木瓜の飾りを今も持っていた。白い小さな袋に包み、誰にも見つからぬよう寝所の文箱の奥にしまっている。夜になり、一人になるとそっと取り出す。くすんだ金属に刻まれた木瓜の紋を指でなぞる。
そうすると、清十郎の声が甦る。
『帰るために、生きます。』
『夢の中ではなく、必ずあなた様の目の前へ』
「約束は、忘れてはおりません」
清瀬は、誰もいない部屋で小さく呟いた。しかし、返事はない。
春が過ぎ、夏が来て、また秋が来た。都に届く噂は多かったが、池ノ院という名だけは、どこにもなかった。時折、清瀬は自分を責めた。彼は、本当に生きているのだろうか。
もしも鎌倉で討たれたのなら、自分は何を待っているのだろう。
もしも生き延びていたとしても、彼は清瀬のことを覚えているのだろうか。あのような混乱の中で、彼だけを待つなど、あまりにも愚かなことではないのか。
それでも、夢を見るたびに思う。春の野に立つ男は、以前ほど遠くへ行かなくなっていた。霧はまだ深い。顔も、はっきりとは見えない。だが、男はもう背を向けていない。
こちらを見ている。そして、何も言わずに手を差し出すのだ。清瀬は夢の中で、その手を取ろうとする。
あと少し。あと少しで届く。そんなところで、いつも朝になる。
秋の初め、綾が久しぶりに実家へ戻ってきた。斯波氏へ嫁いでからの姉は、以前よりも美しくなっていた。衣は上質で、髪には見慣れぬ飾りがあり、立ち居振る舞いにも名家の妻としての落ち着きがある。
けれど、清瀬には分かった。姉の笑みの奥には、以前と同じような寂しさが残っている。
「……清瀬」
夕暮れ、庭の縁側で二人きりになったとき、綾は清瀬へ声をかけた。
「少し痩せたのではなくて?」
「姉上こそ、お疲れでは」
「ふふっ、私は大丈夫」
綾は苦笑した。
「皆がそう言うの。大丈夫、大丈夫と答えているうちに、本当に何が辛いのか分からなくなってしまったわ」
清瀬は黙った。庭では虫が鳴いていた。夏の熱を残した夜風が、二人の袖を揺らす。
「清瀬は彼の方のことを、まだ待っているの?」
綾の問いに、清瀬は驚いて顔を上げた。
「姉上」
「ごめんなさい。責めるつもりも咎めるつもりもないのよ」
綾は、清瀬の手をそっと取った。
「あなたの目を見れば分かるわ。忘れようとしているけど、忘れられない方がおられるのでしょう」
清瀬は、しばらく答えられなかった。誰かに口に出せば、待ち続けている自分があまりにも哀れに思えてしまいそうだった。だけど、彼女は北朝方の妻だ。こんなこと、いってはいけない。だが、姉の前では、嘘をつきたくなかった。
「はい、私は彼の方を待っております」
清瀬は言った。
「生きておられるかどうかも、分かりません。それでも、待っております」
「……清瀬」
「けれど、時々怖くなるのです」
清瀬は初めて、心の内を言葉にした。
「私だけが、あの方を想っているのではないかと。あの方は遠いどこかで、もう別の人生を歩んでおられるのではないかと」
綾は、しばらく清瀬の手を握っていた。
「待つことは、弱いことではないわ」
「でも」
「ただし」
綾は、やさしくも真剣な目で言った。
「待つことで自分を失ってはいけない。清瀬、あなたはあの方が戻ってこられなかったとしても、生きていける人でなくてはならない」
清瀬は、胸が痛んだ。
「そのようなことを、考えたくありません」
「分かるわ」
「考えたくはありませんが……姉上のおっしゃることは分かります。」
綾は頷いた。
「私は斯波一門の妻ですけど、私は清瀬の味方よ。あなたは、あの方を待ちながらも自分の人生を生きなさい。いつか会えたときに、ただ待っていたと言うためではなく『私はここにいた』と言えるように」
その言葉は、清瀬の胸に残った。それは、以前清瀬が池ノ院に言った言葉にも似ている。あなたが戻る場所を失わぬように、生きます。清瀬は、胸もとの奥にある木瓜の飾りの重みを思った。
——同じころ、伊賀国。
伊賀の山々は、早くも冬の気配をまとい始めていた。そんな険しい山道の先に、小さな城がある。
土塁と堀に守られた城は、都の壮麗な御所とは比べものにならないほど質素だった。だが、山と谷を見渡せる高みに築かれたその場所は、攻める者にとって容易には近づけぬ土地である。
城の稽古場で、一人の男が弓を引いていた。弦が鳴る。放たれた矢は、遠くの的の中心を射貫いた。
「今日も見事ですね、伊東殿」
後ろで見ていた若い武士が、感嘆の声を上げた。
「風が強かったにも拘わらず、真ん中とは……」
「風は矢を惑わせるが、人の心まで惑わせるものではない」
男は静かに答えた。それは伊東清十郎といい、昔は池ノ院と名乗っていた男だ。
京都から鎌倉に行き、鎌倉を逃れてからの二年は彼にとって長く苛烈な時間だった。護良親王の死を知ったあと、清十郎は追手から逃れるため、鎌倉の外れに身を潜めた。
仲間の多くは亡くなってしまった。名を名乗れば捕らえられる。
親王に仕えたことが知られれば、命はない。それでも、清十郎は死ぬことを選ばなかった。清瀬が待っている。
あの夜、木瓜の飾りを預けた彼女の姿が、幾度も脳裏に浮かんだ。自分が帰ると言った。生きると言った。だから、彼は逃げた。
武士としては恥だと、思った夜もある。仲間を置いて逃げたことが、胸を刺した。しかし清瀬の涙を思い出すたび、死ぬことだけが忠義ではないのだと自分に言い聞かせた。山を越え、川を渡り、名を偽った。食べ物を得るために農夫の手伝いをし、傷を負えば寺の軒下で眠り、見知らぬ人々の情けによって命をつないだ。
何度も夢を見た。霧の春野。自分を待つ女。手を伸ばしても届かなかった、細い指。しかしある夜、夢の中の女は初めて泣かなかった。
彼女は木瓜の飾りを胸に抱き、こちらをまっすぐに見ていた。
――私はここにおります。
声は聞こえなかった。けれど、清十郎にはそう言われた気がした。
彼はその夢の翌朝、伊賀へ向かった。
伊賀で清十郎を見出したのは、伊東家の当主・伊東景敬であった。清十郎が山道で賊に襲われていた商人を助けたときのことである。数人の賊に囲まれた商人を見て、清十郎は迷わず弓を取った。
一本目の矢が、賊の手から刀を弾き飛ばす。二本目が、別の男の足もとへ突き立つ。三本目は、逃げようとした頭目の肩を射抜いた。
殺さず、しかし逃がさない矢であった。その腕を見ていた景敬は、清十郎を城へ招いた。
「名はなんと?」
「清十郎と申します」
「そこまでの弓術だ。家名があるだろう」
「……失いました」
清十郎は、それだけ答えた。自分が護良親王に仕えていたことは言えない。そんな清十郎を景敬は、しばらく彼を見つめていた。
「武士か」
「かつては」
「かつて、とは」
「今は、何者でもありません」
景敬は笑わなかった。ただ、深く頷いた。
「ならば、ここにいればよい。帰る場所を探す者には、まず足もとを固める場所が要る」
清十郎は、伊東家に身を寄せた。最初は客にすぎなかった。だが、弓の腕だけでなく、城の守りを考える目、兵たちの扱い、夜の見回りにおける用心深さを景敬は評価した。
清十郎は誰より早く起き、若い兵たちに弓を教え、農民からの訴えにも耳を傾けた。強いだけでは、人は守れない。
親王のもとで、彼はそう学んでいた。やがて景敬は、清十郎を養子に迎えると言った。
「我が家には、城と領地を守る者が要る」
ある夜、景敬は火鉢のそばで言った。
「おまえには、過去があるのだろう。追われる理由も、帰りたい相手も」
清十郎は顔を上げた。
「なぜ、それを……」
「人の目は隠せぬ。おまえは時折、都の方角を見ている」
清十郎は黙った。
「養子となれば、伊藤の名を与える。清十郎にはお前だけの家紋と城を任せようと思っている。だが、その代わりここに根を張るのだ」
「私には」
「分かっているさ。都へ帰りたいのは、女がいるのだろう」
景敬は、穏やかに笑った。
「ならば、迎えに行けるだけの力を持て。名も土地も持たぬ男が、『共に生きてほしい』と願っても女を守れるとは限らぬ」
清十郎は、長く沈黙した。
「それに都の女子ということは、名家なのではないか? だったら、この地で地位を確立しなさい」
それはそうだ。清瀬の父は、家のためにしか物事を見ない男だったはず。そんな父が、自分のような素性の知れぬ武士を、清瀬の夫として認めるはずがない。
けれど伊東家の養子となり、城を預かる身となれば。清瀬を迎える道が、少しだけ現実に近づく。
「喜んでお受けいたします」
清十郎は、深く頭を下げた。
「伊藤の名をお預かりし、必ずこの城を守ります」
「よい」
景敬は頷いた。
「そして、おまえを待つ女を娶りなさい」
清十郎が城の当主となって間もなく、一通の書状が届いた。差出人は、清瀬の父の名だった。
伊賀の伊藤家と、都に近い藤原の流れを汲む家との婚姻を望むという内容である。相手の名を見た瞬間、清十郎の手が止まった。
【藤原清瀬】
墨で書かれた名前が、目に焼きつく。心臓が、痛いほど鳴った。都で、今も生きている。そして、その人の縁談が、自分のもとへ届いた。
清十郎は、何度も書状を読み返した。
そこには、清瀬が護良親王の側室に仕えていたことや今は実家へ戻っていること、姉が斯波氏へ嫁いでいること、家のために伊藤家との縁を結びたいことが記されていた。
まるで、清瀬の心など関係のないところで、彼女の人生が決められようとしている。
清十郎の胸に、怒りが湧いた。しかし同時に、恐れもあった。もし自分が名乗り出れば、清瀬は喜ぶだろうか。
あるいは二年ものあいだ何の便りも寄こさなかった男として、彼女を傷つけるだけだろうか。あの約束を、清瀬は覚えているだろうか。
木瓜の飾りを、まだ持っていてくれるだろうか。その夜、清十郎は眠れなかった。城の高台に立ち、月明かりの下で都の方角を見つめる。
「……清瀬殿」
名を呼ぶと、胸の奥に押し込めていた想いが、堰を切ったように溢れ出した。
「私は、あなたを娶ってもよいのでしょうか」
答えはない。けれど風が吹き、木々が鳴った。
夢の中の女が、初めて霧の向こうから近づいてくる。彼女は泣いていなかった。ただ、胸もとに小さな木瓜の飾りを抱いていた。
清十郎は、翌朝、景敬のもとへ向かった。
「縁談を、お受けしたく存じます」
景敬は、書状を見ながら頷いた。
「よかろう。相手の家も、こちらとの縁を望んでいる」
「ただし、一つお願いがございます」
「何だ」
「婚礼の日まで、私がかつて都に仕えていた武士であることを相手方へ明かさないでいただきたい」
景敬は、しばらく黙った。
「それはもちろん。私も、元々は都出身でね、流れてきた落人なんだ。そこはわかっているつもりだよ」
「そうなのですか」
初めて聞く伊藤様の話に、驚いてしまった。
「それだけか」
「……はい」
清十郎は目を伏せた。景敬は、深いため息をついた。
「おまえは、戦場より女の前のほうが臆病らしい」
「そのとおりです」
「ならば、婚礼の場で確かめるがよい」
景敬は、穏やかに言った。
「ただし忘れるな。正体を伏せるのは、相手の心を試すためではない。おまえが彼女の心を受け止める覚悟を固めるためだ」
清十郎は、深く頭を下げた。彼は懐に手を入れた。綺麗に折り畳まれた布を清十郎に渡す。
「これは、清十郎だけの家紋だ。大切にしなさい。それに屋敷も用意したから妻を娶ったらそこへ移るように」
その言葉に清十郎ははいと答えた。
