季節が移るほどに、御所の空気は張り詰めていった。親王のもとへ届く書状は増え、武士たちの警護は厳しくなった。門の外に見知らぬ者が立っていたという話、夜ごと都で争いが起きているという話、足利方の動きが大きくなっているという話。
女房たちは声を潜め、噂を交わした。
「宮様は、都を離れられるのでしょうか」
「鎌倉へ送られるという話もあるそうです」
「まさか。宮様を、そのように」
「今の世には、まさかが多すぎます」
清瀬は、何も言わなかった。
ただ毎晩、木瓜の飾りを手にして眠った。夢の中の春野には、以前より濃い霧が立ち込めていた。
男の姿は見える。けれど、彼の背後には、黒い炎のようなものが広がっている。
「行ってはなりません」
夢の中で、清瀬は何度も叫んだしかし男は、こちらを振り返るだけだった。
――必ず帰る。
その声が、遠ざかっていく。
***
ある夜、池ノ院は御所の外れで弓の手入れをしていた。月は雲に隠れ、庭にはほとんど灯りがない。清瀬は側室の寝所から戻る途中、彼の姿を見つけた。
弓の弦を張る横顔は、いつもより厳しかった。
「池ノ院様」
池ノ院は振り返った。
「清瀬殿。遅い刻です」
「池ノ院様こそ」
「見回りの前に、弓を確かめております」
清瀬は、そばに近づいた。
彼の足もとには矢筒があり、数本の矢が並べられている。どれも真っすぐで、美しく整えられていた。
「何か、起こるのでしょうか」
池ノ院はすぐには答えなかった。やがて、弓を置く。
「殿下が、鎌倉へ移されるかもしれません」
清瀬は息を呑んだ。
「鎌倉へ……」
「確かな命ではありません。ですが、備えよとの指示が出ています」
「池ノ院様も、ご一緒に」
「近侍する武士の一人として、命じられれば」
清瀬は、何も言えなかった。鎌倉へ向かうということは、ただの移動ではない。
敵地へ送られることに等しい。
親王を慕う武士たちが、どれほど危険な立場になるか、清瀬にも分かった。
「行かないでください」
気づけば、口にしていた。池ノ院は、静かにこちらを見る。
「清瀬殿」
「……申し訳ありません。私は、そんなことを申し上げる立場では」
「いいえ」
池ノ院様は、わずかに微笑んだ。
「私は言ってくださって、嬉しい」
清瀬は唇を噛んだ。
「池ノ院様は、いつもご自分の務めを果たされます。殿下のおそばを守るために、危険な場所へも行かれる。分かっております」
「はい」
「分かっておりますけれど……私は、池ノ院様を失いたくありません」
彼の表情から、武士の硬さがほどけた。彼は、周囲に人がいないことを確かめるように一度だけ視線を巡らせた。
そして、清瀬へ近づく。
「清瀬殿」
呼ばれただけで、胸が震えた。
「こちらへ」
彼は、庭の奥にある小さな蔵の陰へ清瀬を導いた。誰にも見られぬ場所。
しかし、完全に閉じられた空間ではない。夜空が見え、風が通る。
池ノ院は、清瀬から一歩分の距離を置いた。
「私は、行かねばなりません」
彼の声には迷いがなかった。
「殿下に仕えた者として。武士として」
「はい」
「けれど、必ず生きて戻ると約束はできません」
清瀬の目から涙がこぼれた。
池ノ院は、彼女の涙を見て苦しそうに眉を寄せる。
「だから、約束をしないのではありません」
「え……」
「帰るために、生きます」
池ノ院は、まっすぐに言った。
「あなた様のところへ戻るために。どれほどみっともなくても、どれほど遠くへ逃げることになっても、生き延びます」
清瀬は、涙を拭った。夢の中の男は「必ず帰る」と言った。
しかし今、池ノ院様は違う言葉を選んでいる。
ただ運命に任せるのではない。自分で生きることを選び、自分で帰る道を掴もうとしている。
「私も、約束をいたします」
清瀬は胸もとから木瓜の飾りを取り出した。
「これを、今はお返しいたしません」
池ノ院は目を見開いた。
「清瀬殿」
「あなた様が、ご自分の手で私から取り戻しにいらっしゃるまで……私は、この証を守ります」
「ですが、もし私が」
「その先を言わないでください」
清瀬は、首を振った。
「私は待ちます。けれど、ただ待つだけではありません。戻られたとき、私がここにいると分かるように生きます」
池ノ院は、長く息を吐いた。そして、震えるように笑った。
「あなた様には、敵いません」
「私も、逃げたくありませんから」
彼は、ゆっくりと手を伸ばした。
「手を」
清瀬は迷わず、自分の手を重ねた。彼の手は熱かった。池ノ院は、両手で清瀬の手を包み込み、額をその指先へ寄せた。
武士である彼が、祈るように自分の手を抱いている。清瀬の胸が、切なく満たされた。
「帰ります」
池ノ院は、清瀬の手に触れたまま言った。
「夢の中ではなく、必ずあなた様の目の前へ」
清瀬は、彼の髪に触れたい衝動を堪えた。けれど、その代わりにそっと彼の手を握り返した。
「お待ちしております」
その夜、二人は長く手を離せなかった。
それから間もなくして、親王は鎌倉へ護送されることになった。御所は混乱に包まれた。女房たちは泣き、武士たちは無言で支度を整え、親王の側近たちは書状を焼き捨てた。
残してはならない名や言葉が、火の中で黒くなっていく。
清瀬は側室のそばにいた。彼女は青ざめた顔で、親王の乗られる輿を見送っている。親王の側には、私は存じ上げないが南の方が同行するのだと聞いた。そして武士は数人同行するのだと聞いた。
私は姿を探した。同行条件は知らないが武士たちの列の中に彼はいた。甲冑を身につけ、弓を背負い、親王の近くに控えている。清瀬を見つけた。ほんの一瞬。大勢の人々の中で、二人の目が合った。彼は何も言わなかった。
清瀬も声を出せない。ただ、彼の視線が、清瀬の胸もとへ落ちた。
木瓜の飾りがある場所。そして彼はわずかに頷くと、清瀬もまた涙をこらえながら頷いた。それが最後の言葉になった。
月日は流れ、一三三五年。
鎌倉で中先代の乱があった頃、護良親王は鎌倉で殺害された。知らせは、冷たい雨の日に届いた。
御所に残されていた女房たちは、声を失った。女房たちは泣き、武士たちの多くは捕らえられるか、行方知らずになったものも多いと聞く。そして、池ノ院の名はどこにもなかった。
討たれた者の中にも。捕らえられた者の中にも。生き延びた者の中にも。誰も、彼を知らなかった。実家が身分のある者は、実家へと帰っていった。それは清瀬も同じで清瀬も父の使者によって実家へ連れ戻された。
御所を去る朝、庭の椿はすでに散っていた。あのとき彼が折ってくれた赤い花も、今は地面に落ち、雨に濡れている。清瀬は、最後に一度だけ振り返った。
彼と初めて手を重ねた渡殿。夜の庭。祠の前。すべてが、遠い夢のように思えた。
けれど胸もとには、確かな重みがある。木瓜の飾りだ。彼が必ず返してもらうと言ったものだ。清瀬は、それを両手で包んだ。
「……私は、待ちます」
誰にも聞こえぬ声で、呟いた。
「けれど、ただ待つのではありません」
雨の向こうに、都の景色が滲んでいた。清瀬は、涙を拭いた。そして、清十郎が戻る道を信じながら、実家へと向かう馬車に乗り込んだ。
