政略結婚の花婿は、前世から私を探していた行方不明の武士様でした。 ー幾世の契りー






 木瓜の飾りを預かってから清瀬の世界は少しずつ変わった。それまでの彼女にとって、毎日は決められた務めの繰り返しだった。
 朝、御前の身支度を整え、文を運び、香を焚く。衣を繕い来客があれば控え、余計なことは言わない。
 それが女房としての務めであり、父の家から預けられた娘としての生き方だった。けれど、胸もとに忍ばせた木瓜の飾りに触れると、清瀬は自分の内に、これまで知らなかった熱があることを知った。

 あの殿方は、いつか迎えに来ると言った。
 清瀬は、ただ待つだけのために生きるのではない。彼が戻る場所を守るために、今日を生きるのだ。
 そう思えるだけで、朝の空が以前より明るく見えた。そして池ノ院もまた、以前とは少し違っていた。
 人目のあるところでは、変わらず寡黙な武士である。女房たちが通れば道を譲り、親王の命があればすぐに駆け、余計な笑みを見せることもない。
 だが、清瀬を見つけると、ほんのわずかに目もとが和らぐ。清瀬がその変化に気づくたび、胸はひそかに甘く疼いた。
 ある朝、御前のもとへ届けるための文を抱えて渡殿を歩いていると、前方から池ノ院が現れた。数人の武士を従え、何かの見回りに向かう途中らしい。清瀬は立ち止まり、ほかの女房と同じように端へ寄った。
 彼はすれ違いざまに足を止めた。
「清瀬殿」
 女房たちの視線が集まる。清瀬は胸を躍らせながら、慎重に顔を上げた。
「何でしょう」
「その文は、風が強ければ飛ばされます」
「大丈夫です。しっかり抱えておりますから」
「……そうですか」
 彼はそれだけ言った。
 しかし去り際に、誰にも見えぬほど小さく、清瀬の袖口へ目を向けた。そこには、以前彼が巻いてくれた傷の跡は残っていない。清瀬は、思わず袖の内で手を握った。
 

 清瀬の姉の綾が斯波氏の分家へ嫁ぐことが正式に決まったのは、そのころだった。
 父からの書状は、御所にいる清瀬のもとへ届いた。

 美しい料紙に、祝意を述べる言葉が並んでいる。しかし清瀬には、そこに書かれた「家のため」「末永い繁栄」「足利一門との結びつき」という文字だけが妙に重く見えた。

 綾の婚礼は華やかに整えられる。父の家にとってそれは大きな飛躍だった。
 足利方と深く結びつくということは、これからの世で生き残るための確かな策になる。父はそう信じているのだろう。

 だが清瀬の胸には、不安が広がった。護良親王は宮方の中心に近いお方であり、池ノ院はそのお側を守る武士である。足利方との縁が濃くなればなるほど、父は親王に仕える者たちを警戒するようになるはずだった。
 案の定、その数日後、実家から使者が来た。
「姫様。お館様がお帰りをお望みでございます」
「父上が?」
「はい。姉君様の婚礼前に、一度お屋敷へお戻りいただきたいと」
 清瀬は、御前に願い出て数日だけ帰省することになった。久しぶりの実家は、婚礼の準備で慌ただしかった。庭には新しい砂が蒔かれ、門には祝いのための飾りが整えられ、女房や下働きの者たちが休む間もなく行き交っている。
 幼いころ、清瀬が一人で座っていた縁側も今は華やかな調度で飾られていた。
 家が栄えるというのは、こういうことなのだろう。けれど、その華やかさは清瀬の心を温めなかった。
 父は、清瀬が帰ったその日のうちに彼女を呼び出した。書院には、父のほかに綾もいた。姉は、婚礼のために仕立てられたばかりの衣をまとっていた。淡い藤色の衣は、姉の美しさをいっそう引き立てている。

「清瀬。姉の婚礼については聞いているな」
「はい。おめでとうございます、姉上」
 清瀬が言うと、綾はかすかに笑った。
「ありがとう」
「斯波家は足利一門の名門だ」
 父は、低い声で続けた。
「この縁組は、我が家の行く末を左右する。これからは軽率な振る舞いを慎み、宮方の者と不用意に交わることのないようにせよ」
 清瀬は一瞬、息を呑んだ。
「宮方の者、と申されますと」
「護良親王のお側にいる者たちだ」
「私は御前に仕える女房にございます。私の務めは変わりません」
「務めのことを言っているのではない」
 父の目が鋭くなった。
「池ノ院という武士と、親しくしているという話を聞いた」

 清瀬の指先が冷たくなった。誰かに見られていたのだ。庭先で交わした言葉。夜の渡殿で、清十郎が付き添ってくれたこと。祠の前で、木瓜の飾りを受け取ったこと。
 どこまで知られているのか、清瀬には分からなかった。
「親しく、など」
「否定するな」
 父の声が強く響いた。
「武士と女房が人目を忍んで会えば、噂は立つ。しかも相手は大塔宮に近侍する者だ。今後、どのような立場となるかも分からぬ」
「彼の方は、ただ……」
 清瀬は言いかけて、言葉を失った。ただの武士ではない。夢の中でずっと待ち続けた人。前世から続く約束を交わした人。そんなことを父に言えるはずがなかった。

「清瀬」
 綾が、静かに名を呼んだ。清瀬が見ると、姉は哀しそうに目を伏せていた。
「父上は、あなたを案じておいでなのです」
「案じて……」
 清瀬は思わず苦く笑いそうになった。家のために使い道があると言って、自分を宮方へ送った父が。家の都合が変われば、今度は宮方の者に近づくなと言う。父が案じているのは、清瀬の心ではない。
 家がどちらの側につくか、そのことだけだ。

「分かりました」
 清瀬は、深く頭を下げた。
「以後、心致します」
 父は頷いた。
「よい。おまえは賢い子だ。余計な想いに囚われて、己の身を損なうな」

 清瀬は返事をした。けれど、胸もとにある木瓜の飾りは、どこか熱を帯びているように感じた。


 その夜、綾が清瀬の部屋を訪ねてきた。侍女たちを下がらせたあと、姉はしばらく何も言わずに座っていた。
 灯火が揺れ、二人のあいだに影を落としている。

「姉上」
「父上のお言葉は、厳しかったわね」
「父上らしいお言葉でした」
「清瀬」
 綾は、少しだけ声を強めた。
「無理に平気な顔をしないで」
 その一言で、清瀬の心の奥に押し込めていたものが揺れた。
「私は……平気です」
「嘘」
 綾は、清瀬の手を取った。
「あなたは幼いころから、苦しいときほど笑うもの」

 清瀬は、姉の手を見つめた。

「姉上は、斯波家へ嫁ぐことを嬉しく思っておられますか」
 綾の指が、わずかに震えた。
「嬉しい、と言えば嘘になるでしょうね」
 姉は、ゆっくりと答えた。
「斯波家は立派な家です。父上も母上も、皆が私を祝ってくれる。けれど私は、まだお会いしたこともない方のもとへ参るのです」
「怖くはないのですか」
「怖いわ」
 綾は、初めて弱さを見せるように微笑んだ。
「でも、私が嫁げば家が守られる。父上にそう言われれば、嫌だとは言えないでしょう」

 清瀬は胸が詰まった。
 姉もまた、自分と同じだった。正妻の娘であることも、父に大切にされていることも、自由を意味するわけではない。
「姉上」
「あなたには、好きな方がいるの?」
 清瀬は息を呑んだ。綾は問い詰めるのではなく、ただ静かに待っていた。
 だからこそ、嘘をつくことが苦しかった。
「……分かりません」
「分からない?」
「好きということが、何なのか」
 清瀬は俯いた。
「私はずっと、誰かを待つ夢を見てまいりました。その方が誰なのかも知らずに。けれど今、会うたびに心が苦しくなる方がおります」
 綾は、清瀬の手を強く握った。
「その方は、清瀬を大切にしてくださるの?」
「はい、きっと」
「あなたが泣けば、悲しんでくださる?」
「……そうだと思います」
「なら、あなたはその方を大切に思っているのよ」
 清瀬の目に涙が浮かんだ。
「けれど、父上は」
「父上は私たちの幸せよりも、家を見ておられる」
 綾は、静かに言った。
「私は、嫁ぐ前にあなたへ言っておきたいことがあります。家のために生きることは、悪いことではないわ。でも、家のために心まで差し出してしまってはいけない」
「姉上」
「心にいる人まで、誰かに決めさせては駄目」
 綾はそう言って、清瀬の髪を撫でた。幼いころ、熱を出した清瀬の枕もとで姉がしてくれたのと同じ手つきだった。
「たとえ選べぬ道を歩くことになっても、自分が何を望むのかだけは、忘れないで」
 清瀬は、姉の肩に額を寄せた。泣くつもりはなかった。けれど、涙は止まらなかった。


  ***


 御所へ戻ると、清瀬は以前より慎重にふるまった。彼と目が合っても、すぐに視線を逸らす。
 庭先で彼の姿を見かけても、近づかない。人の多い場所では、まるで彼を知らぬかのように頭を下げるだけにした。それが池ノ院を守ることになると、自分に言い聞かせた。
 しかし、彼はすぐに気づいてしまった。
 数日後、清瀬が夕暮れの庭を通ろうとしたとき、彼は庭の端で待っていた。梅の枝が影を落とし、空は薄紫に染まっている。

「清瀬殿」
 清瀬は立ち止まった。
「池ノ院様……お務めの途中では」
「はい」
「でしたら、どうか」
「何かありましたか」
 低い声だった。責めるのではない。ただ、ひどく案じている声だった。
 清瀬は黙った。
「私が何か、あなた様のお気に障ることを」
「違います」
 すぐに否定した。
「池ノ院様は、何も」
「では、なぜ避けられるのです」
 彼の声が、わずかに苦しげに揺れた。清瀬は唇を噛む。言ってしまえばいい。
 父に知られたこと。家が足利方と結びつくこと。自分が彼のそばにいることで、彼の立場まで危うくなるかもしれないこと。
 けれど言えば、彼はきっと「それでも」と言う。
 清瀬は、その言葉を聞くのが怖かった。

「私の実家が、……異母姉が、足利方と縁を深めます」
 ようやく、清瀬は言った。
「姉が斯波氏へ嫁ぐことになりました」
 彼の表情が固くなった。
「斯波氏へ」
「父は、宮方の者と親しくするなと申しました。池ノ院様とのことも、すでに耳に入っております」
「そうですか」
 清十郎は短く答えた。けれど、その拳は固く握られていた。
「ですから、私は……あなた様を避けなければなりません」
「私のために」
「はい」
「清瀬殿は、それでよいのですか」

 その問いに、清瀬は答えられなかった。よいはずがない。
 彼に会えぬだけで、心が空っぽになる。声を聞けぬ日には、夢の中の霧がまた深くなったように感じる。けれど、きっと私は彼のことを慕っている。だからこそ危険に巻き込みたくない。

「私は……」
 清瀬の声が震える。
「池ノ院様にご無事でいていただきたいのです」
 彼は、目を閉じた。しばらくして、静かに言った。
「私は武士です。いつ何があるか分からぬ身です」
「だからこそです」
「ですが」
 一歩近づいた。夕暮れの庭に、人の気配はない。
「あなた様に避けられることほど、私には辛いことはありません」
 清瀬の胸が締めつけられた。真剣な目で続けた。
「危険を避けるために、離れる必要があることは分かります。けれど、あなた様が私を想って身を引くのなら……私は、どうしてよいか分からなくなる」
「池ノ院様」

「私は、清瀬殿を守りたい」
 彼の声は、低く、まっすぐだった。
「けれど、守るとは、ただ遠ざけることではないのでしょう」
 清瀬は、涙をこらえた。池ノ院はいつも、彼女の気持ちを急かさない。
 手を取る前には、必ず許しを求める。
 言葉にできぬ想いを、無理に暴こうとはしない。
 だからこそ、彼のまっすぐな言葉から逃げたくなかった。

「私は、貴方様を嫌って避けたのではありません」
 清瀬は言った。
「むしろ……お会いすればするほど、おそばにいたいと思ってしまうからです」
 池ノ院の目が揺れた。
「清瀬殿」
「ですが、それではあなたさまが危うくなります」
「私は危うい道を選んで、ここにおります」
「そんなことを言わないでください」
「では、清瀬殿も、ご自分を後回しになさらないでください」
 彼は、そっと手を差し出した。以前と同じ、大きな手だ。夢の中で届かなかった手。清瀬は、周囲を見回した。
 誰もいない。
 それでも、触れてしまえば、もう以前のようには戻れない気がした。
「一度だけ」
 池ノ院が言った。
「今だけ、手をお預けください」
 清瀬は、震える手を差し出した。彼の指が、そっと彼女の指を包む。強く引き寄せることはしない。
 ただ、そこにいることを確かめるように、優しく握る。
「温かい」
 池ノ院は呟いた。清瀬は、顔を上げた。
「何が、ですか」
「あなた様のお手が」
 彼は少しだけ微笑んだ。
「夢の中では、いつも届かなかったので」

 清瀬の頬を、涙が伝った。彼は驚き、けれどすぐに片方の手を袖へ引いた。触れてよいか迷うように、そこで止める。清瀬は、自分からわずかに顔を寄せた。指先が、そっと涙を拭った。頬に触れたのは、ほんの一瞬だった。しかし清瀬には、時が止まったように感じられた。
「泣かせてしまいました」
「違います」
「では、何故」
「嬉しいのです」
 清瀬は、涙の残るまま笑った。
「あなた様が、ここにいてくださるから」

 彼は、言葉を失ったように清瀬を見つめた。そして、握った手を少しだけ強くした。
「私は、どこへ行っても」
 彼は言った。
「清瀬殿のもとへ帰る道を、忘れません」
 夕暮れの空に、一番星が光り始めた。それは、まだ約束と呼ぶには頼りない、小さな光だった。けれど清瀬には、その光が二人の未来を照らしているように思えた。