清瀬は池ノ院を避けようとした。自分は側室に仕える女房、彼は親王の警護を担う武士。二人が人目を忍んで親しくすれば、どのような噂が立つか分からない。御所には、親王を慕う者も武家に通じる者も多く、誰が誰の言葉を聞いているか分からなかった。清瀬は庭の奥へ行かず、彼が見回る時刻には渡殿を通らぬようにした。
それでも会ってしまう。五日後の昼下がり、清瀬は側室の使いで奥の庭の椿を切りに出た。誰もいないと思っていた木の下で、不意に背後から声がした。
「その枝は、高すぎます」
池ノ院だった。
「御前が、赤い椿をご所望で」
「私が取ります」
「ですが、警護のお務めが」
「これも、御所の女房殿が怪我をなさらぬための務めです」
石に片足をかけ、花を傷つけぬよう手際よく枝を切り取る。
「どうぞ」
差し出された椿は瑞々しかった。清瀬が受け取ろうとしたとき、彼の視線が清瀬の左手に留まった。
「手を。……先日、衣を拾う際に傷めてはいませんか」
指先に、細い傷があった。木のささくれで引っかけたのだろう。
「この程度です」
「甘く見ると膿むことがあります」
彼は懐から小さな布を取り出した。
「少し、お借りしても」
清瀬の返事を待つ、静かな慎重さがあった。
「……お願いいたします」
両手で包まれた手は、大きく硬い掌に細い指を傷つけぬよう支えられていた。布には薬草の匂いがした。
「弓を扱う者は、指を傷めることが多いのです。自分のために持っております」
「それを、私に使ってしまわれたのですか」
「清瀬殿が痛い思いをなさるよりは、よほどよい」
清瀬は思わず顔を上げ、それから目を逸らした。彼の横顔がなぜか照れたように見え、胸が温かくなった。
「池ノ院様は……お優しい方です」
言ってから恥ずかしくなる。
「そのお言葉を、忘れぬようにいたします」
風が吹き、椿の花びらが二人の間に落ちた。指に巻かれた白い布の結び目が、二人を結ぶ約束のように思えた。
それから二人は、短い会話を重ねるようになった。清瀬は自分から探すことはしなかったが、椿の咲くころには庭へ出る理由を作り、渡殿を通る折には彼を待ってしまう。清十郎もまた露骨に近づくことはないが、重い荷を運べばさりげなく手を貸し、夜道の前に灯りを置いてくれた。周囲に知られてはならぬからこそ、小さなやり取りの一つ一つが、清瀬にとって何より大切なものになっていった。
ある夜、清瀬は御前の命で書状を奥の間へ運んでいた。渡殿の灯火は少なく、板張りの廊下に月影が落ちている。庭の奥で枝が折れる音がし、塀の向こうを誰かが移動する気配がした。足を止めた清瀬の袖を、背後から伸びた手がそっと引いた。
「声を出さないでください」
池ノ院だった。彼は清瀬を柱の陰へ導き、自らは一歩前に出て太刀に手を添え闇を見据えた。夢の中で遠ざかるばかりだった背中が、今は自分を守るように立っている。
やがて庭の気配は遠のいた。
「野良犬か、忍び込んだ者か。まだ分かりません。今夜は、私が御所の周りを見回ります」
「お一人で戻られるのは、心配です」
「書状をお届けする間だけ、お供いたします」
「それではあなた様のお立場が」
「私の立場より、あなた様のご無事が大切です」
あまりにも迷いなく言われ、清瀬は言葉を失った。彼はすぐに視線を外し、少し困ったように言い直す。
「もちろん、御前に仕える女房殿に何かあれば、御所の務めにも支障が出ます」
「……そういうことにしておきます」
彼は驚いたようにこちらを見、やがて声を立てずに笑った。張り詰めた武士の顔がふっと柔らかくなる。それだけで、月明かりの廊下が少し明るくなった気がした。半歩前を歩く彼の背を見ながら、清瀬は思う。夢の中では、彼はいつも遠ざかっていた。けれど今、この人は自分の歩みに合わせてくれている。それが、たまらなく嬉しかった。
***
数日後、清瀬は御所の裏手の小さな祠で池ノ院と出会った。人通りが少なく、風に竹林がさらさらと鳴る場所である。彼は何かを考え込んでいるようだった。
「池ノ院様は、眠りの浅い夜などはありませんか」
「あります」
「夢を……見られますか」
「なぜ、そのようなことを」
「私も、夢を見ます。幼いころから、同じ夢を」
竹の葉が風に揺れる。やがて彼は低い声で言った。
「私もです。夢の中に、女がいます。春の野に立っている。顔は見えません。けれど、私はその女を置いて行かなければならない」
「その方は、何か言われますか」
「聞こえません。私はいつも、彼女に何かを渡そうとしています。けれど、手が届く前に目が覚める」
「私は……男の方を待つ夢を見ます。弓を持ち、血を流していて、私に待っていてくれと仰るのです」
「……待っていてくれ」
彼の呟きは震えていた。
「その言葉を、私は夢の中で言っています」
清瀬は足もとが揺れるような感覚に襲われた。ずっと探していた人は、現実に、今、目の前にいる。
「清瀬殿。恐ろしいと思われますか」
「何を、でしょうか」
「生まれる前のことかもしれない。あるいは、ただの夢かもしれない。それでも私は、あなた様を見るたびに……帰ってきたような気がするのです」
清瀬の目から涙がこぼれた。自分でもなぜ泣くのか分からない。ただ、その言葉をずっと待っていた気がした。夢の中では帰れなかった人が、ようやく自分の前に戻ってきた。
「申し訳ありません。泣かせるつもりでは」
「違うのです。嬉しいのです。初めてお目にかかったはずなのに、ずっと昔から存じ上げているようで」
彼の視線はあまりにも真剣だった。
「お顔を上げていただけますか。……ようやく、お顔を見られた気がいたします」
夢の中では、いつも顔が見えなかった。今、この人は自分の顔を見ている。
「私もお顔を、初めて見たような気がいたしません」
「それは、武士としては嬉しい言葉です。忘れられない顔になれたということでしょう」
清瀬は思わず笑った。この人といると、夢の中で積もり続けた孤独が少しずつ消えていく。
その日の帰り際、池ノ院は懐から小さな包みを取り出した。中には古びた金具――掌に乗るほどの飾りがあり、くすんだ表面の中央に木瓜の紋がはっきりと見えた。
「家に、古くから伝わる品です。もとは衣か髪飾りか、それすら定かではありませんが、家に伝わる話があります。我が祖先にあたる方が院に仕える北面の武士で、戦へ向かう前に想う女子へこの品を遺したそうです。その武士は、戻りませんでした」
清瀬の指先が震えた。夢の男は弓を持ち、血を流し、待っていてくれと言った。
「女子は、その武士を待ち続けたと聞きます。やがて品だけが武士の一族へ戻り、以来この飾りは、遺した者の手に返すべき証として伝えられてきました」
「遺した者は、もう……」
「亡くなっているはずです。けれど、もしも約束だけが残るのなら。人の想いが時を越えることがあるのなら。いつか、その人のもとに返したいと思っていました」
池ノ院が掌をそっと差し出した。
「触れてみますか」
「よろしいのですか」
「清瀬殿には、見ていただきたい」
恐る恐る手を伸ばし、木瓜の飾りに触れた瞬間、胸の奥に激しい痛みが走った。春の野。霧。血に濡れた衣。振り返らずに去っていく男。清瀬は息を呑み、よろめいた。
「清瀬殿」
彼はすぐに、周囲を憚るように腕をそっと支えた。その指先から伝わる熱に、清瀬の心は乱れた。
「申し訳ありません。少し、眩暈が」
「座れますか」
「……大丈夫です」
「大丈夫ではありません」
いつになく強い口調で言い、すぐに自分の声に驚いたように表情を和らげる。
「……申し訳ありません。ですが、無理はなさらないでください」
祠の脇の石に腰を下ろし、清瀬の呼吸が整うのを、彼は急かさず待った。
「もしも、あの武士と女子が、私たちの前の世に生きていた人たちだとしたら」
「私も、同じことを考えました」
「怖くはありませんか」
「怖いです。私は戦へ行く者です。生きて帰る約束をしても、守れぬことがある。そのような夢を見るたび、自分がまた誰かを置き去りにするのではないかと思う」
この人は強いと思っていた。誰かを守るために太刀を帯び、弓を引く人。けれど今、自分の弱さを隠さずに見せていた。
「私は怖くありません。……いいえ、正しくは、怖いです。でも、伊東様がまたいなくなられることより、何も知らぬまま、お顔も見られぬまま終わるほうが怖い」
驚いたように彼は清瀬を見た。
「今世では、逃げないでください。私も、逃げません」
長い沈黙のあと、彼は木瓜の飾りを包み直し、清瀬の前に置いた。
「お預けします」
「私に? これはあなたの家の大切な品でしょう」
「だからこそです。あなた様が待つ人であるなら、この品は、あなた様のもとにあるべきです」
「まだ、そうと決まったわけでは」
「決まっていなくとも、私はそうしたい」
受け取れば、二人の間に形のある約束が生まれる。受け取らなければ、夢と現の境目に立ったままでいられる。けれど清瀬は、もう待つだけではいたくなかった。そっと手を伸ばし、木瓜の飾りを受け取る。
「お預かりいたします」
「必ず、返していただきます」
「いつ、でしょう」
「私が、あなた様を迎えに行くときです」
迎えに来る――それは、ただの武士と女房のあいだで交わしてよい言葉ではない。けれど彼の目は真剣で、冗談の欠片もなかった。
「今は、それ以上を申し上げられません。世が落ち着くまで。私が、あなた様を守れるだけのものを得るまで」
清瀬は包みを胸もとへ抱いた。
「では、私も申し上げます。お待ちしております」
夢の中で、何度も言えなかった言葉だった。今度は、自分自身の声で告げる。
「けれど、ただ待つだけではありません。伊東様が帰る場所を失わぬように、この証を守ります」
彼は何も言わず、ただ清瀬を見つめていた。そして人目のない竹林の影で、一度だけ清瀬の手に触れた。指先が触れ合うだけの、短い触れ方だった。それなのに清瀬には、その手が強く自分を引き寄せたように思えた。
「清瀬殿。今度は、夢の中ではなく」
彼の声が、かすかに震えた。
「必ず、お会いしましょう」
清瀬は、指先に残るぬくもりを握りしめた。
「はい」
その返事は、遠い前世から続いていた約束への答えでもあった。
