夢の中で清瀬は、いつも待っていた。春の野に白い霧が流れ、足もとには山桜の花びらが夜露を含んで月光を淡く返している。遠く山の稜線が黒く横たわり、馬の嘶きが聞こえた。
重い足音が近づき、清瀬は霧の向こうを見つめた。甲冑をまとい弓を携えた男が立っている。肩から胸にかけて濃い染みが広がっていた。血だと気づき、息を呑む。
「お待ちください」
呼びかけても男はすぐに振り返らない。風が吹き、桜の花びらが二人の間を横切った。
「お怪我を……」
清瀬は霧の中へ踏み出した。近づかねばと思うのに、足もとの土は水のように揺らぎ、急ぐほど男との距離は遠ざかる。ようやく振り返った男の顔は見えない。輪郭だけが月明かりに浮かび、目もとには深い影が落ちていた。
「どうか、待っていてくれ」
低く掠れた、それでも不思議に優しい声だった。
「必ず、帰る」
「お名前を……」
清瀬が手を伸ばす。男もまた手を差し出す。指先が触れた瞬間、激しい風が吹き、霧がすべてを呑み込んだ。男の姿も、差し出された手も、春の野も消えていく。
「待っていてくれ」
最後に声だけが残った。清瀬は夜明け前の寝所で目を覚ました。胸が苦しい。物心ついたころから同じ夢を見続けている。男の顔を見たことは一度もない。それでも彼がいなくなるたび、大切なものを失ったような気持ちになった。
「……必ず、帰る」
夢の男の言葉を、声に出さず繰り返す。待つのはいつも自分だった。待ち続けても男は戻らない。それでも清瀬は、彼を見捨てることができなかった。まるで、彼を待つことが自分の役目であるかのように。
***
清瀬は藤原南家の流れを汲む家に生まれた。都の政の行方を読み、誰と結び誰から距離を取るかを常に考える父を持つ家である。
異母姉の綾は正妻の娘で、幼いころから美しく聡明、父母に大切に育てられた。琴を弾けば人が聞き入り、和歌を詠めば褒めそやされる。清瀬は姉を嫌ってはいなかった。熱を出せば薬湯を持ってきてくれたし、母の違う妹だからと冷たくされたこともない。ただ、姉と自分の間に引かれた線を、清瀬はよく知っていた。姉には家の未来を左右する立派な縁談が、自分には家の都合で決められた場所が与えられる。それが姉妹の違いであり、幼いころから受け入れてきたことだった。
夢から覚めた朝、清瀬は父の書院へ呼ばれた。庭には梅が咲き始め、白い花が冷たい朝の空気にほのかな香りを放っていた。
「清瀬。おまえには、護良親王殿下のもとへ上がってもらう。殿下の側室に仕える女房として、都の外の御所へ赴くのだ」
護良親王――後醍醐天皇の皇子、大塔宮とも呼ばれる、武家を討ち世を変えようとする勢力の中心にいる方。名誉であると同時に、家の意向で人生の行く先を決められるということでもあった。
「私で務まりますでしょうか」
「務めるのだ。そなたは姉とは違う。だからこそ、宮方とのつながりを持つ者として使い道がある」
静かな言葉が、清瀬の胸に鋭く刺さった。正妻の娘ではない、家で最も都合よく動かせる娘。清瀬は畳に手をつき「承知いたしました」と答えた。
部屋を出ると、廊下に綾が立っていた。
「御所へ上がるのですね」
「はい」
「怖くはないのですか」
怖くないわけではない。だが言ったところで決定は変わらない。
「父上がお決めになったことですから」
「そうね」
綾の声には、思っていたより深い寂しさがあった。
「私にも、縁談の話が来ているだけです。……女の身では、自分の行く先を選べないものね」
その言葉に、清瀬は何も返せなかった。父の前では、姉もまた一人の娘にすぎないのかもしれない。
「どうか、ご無事で。宮方の周りは、これから騒がしくなるでしょうから」
「ありがたく存じます。姉上も、お元気で」
二人はしばらく黙って手を握っていた。同じ家に生まれながら、違う場所へ運ばれていく姉妹だった。
護良親王の御所は、華やかな貴族の邸とは違っていた。警護の武士が絶えず出入りし、早馬が書状を運び、女房たちの間にも世の行方をめぐる噂が飛び交う。御簾の奥で聞こえる男たちの声には、いつも緊張が混じっていた。清瀬は着任して間もなく、それを感じ取った。
「大塔宮様のお側は、落ち着きませんね」と年長の女房・小夜が言った。「都では新しい世になったと皆浮かれておりますが、武家が黙って引くはずもありません」
「私たち女房には、何が起きているのかよく分かりません」
「分からないほうがよいこともございますよ。御簾の内のお方も、庭を守る武士も、皆それぞれに命を懸けているのです。余計なことを言わず、見聞きしたことをむやみに外へ出さぬこと」
その夜、また夢を見た。霧の春野に血を流した男、届かない手。けれどいつもと違うことが一つ。男の声が少し近かった。
「待っていてくれ」
「待っております」
夢の中で、清瀬は初めて答えた。
「あなた様のお名前を、教えてください」
霧が晴れかけ、男が何かを言おうとした、その瞬間。
「池ノ院、ただいま戻りました」
現実の声が夢を破った。飛び起きた清瀬の胸が大きく跳ねる。夢の男と、同じ声だった。
その日の夕刻、清瀬は洗い上げた衣を抱え渡殿を急いでいた。朝からずっと胸が落ち着かない。池ノ院――御所の警護を担う武士。ただそれだけの名のはずなのに、聞いた瞬間から心が離さなかった。
庭の角で、清瀬は不意に誰かとぶつかった。衣が落ち、白い小袖が風に広がる。
「お怪我はありませんか」
低い声に、清瀬は息を止めた。顔を上げると、黒い狩衣に太刀を帯びた長身の武士が立っていた。眉はきりりと整い、日焼けした横顔は凛々しい。けれどその目には、武士らしい鋭さだけでなく、どこか懐かしい哀しみがあった。男は散らばった衣を拾い上げる。
「女房殿。手を」
差し出された手を見た瞬間、清瀬の呼吸が止まった。夢の中でも、その手は差し出されていた。届かなかった手。恐る恐る指先を重ねる。大きく節くれ立った、弓と剣を握る手だった。それでも、清瀬の手を引き上げる動きは驚くほど丁寧だった。
「ありがとうございます」
「こちらこそ、前を見ずに歩いていたのは私です」
男は少し笑った。
「私は池ノ院と申します」
「清瀬と申します」
名乗った瞬間、彼の表情がほんの一瞬変わった。彼もまた、驚いたように見えた。
「清瀬……殿」
「どうかされましたか」
「いいえ」
衣を渡すとき、二人の指先がまた触れた。清瀬の心は、ひどく乱れた。初めて会ったはずなのに、ずっと昔からこの人を知っている。ずっと、名を呼ばれるのを待っていたような気がする。
その場を辞し、誰にも見えない場所まで来てから、清瀬は胸もとを押さえた。夢の中で一度も見えなかった男の顔を、今、初めて見た。そしてその顔を見た瞬間、自分が長いあいだ待っていた相手を見つけてしまったのだと知った。
