朝、教室に入った瞬間、莉子の席だけが昨日のままだった。
机の上に白い花。背もたれに掛けられたままの紺色のカーディガン。誰かが返し忘れた英単語帳まで、そのまま置かれている。
人が死ぬと、持ち物だけが急に持ち主を失う。
私は席に着き、スマホを鞄の底へ押し込んだ。
昨夜から何度も確認した。
予約投稿、今日の午後五時。
中身は分からない。
消すにはログインしなければならない。
でもログインしたら、見てしまうかもしれない。
「美月」
後ろから声をかけられ、肩が跳ねた。
振り返ると、同じクラスの新堂蓮が立っていた。
「大丈夫?」
大丈夫。
そう答えそうになって、やめた。
莉子がよく使っていた言葉だからだ。
「……平気」
結局、似たようなことを言った。
蓮は何か言いたそうにしたが、朝のホームルームを告げるチャイムが鳴った。
担任が教室に入ってくる。
いつもよりゆっくり教卓の前に立ち、莉子の席を見た。
「朝倉のことで、みんなに一つだけお願いがあります」
教室が静かになる。
「SNSに、根拠のないことを書かないでください。事故について憶測を広げるのもやめてください」
何人かが目を伏せた。
私は机の下で指を握った。
もう遅い。
昨夜から、莉子の名前を検索するといくつも投稿が出てきた。
〈彼氏と別れたらしい〉
〈自殺じゃないの?〉
〈歩道橋で誰かと揉めてたって〉
そして今朝、新しい匿名アカウントまで現れていた。
〈朝倉莉子が死んだ本当の理由〉
中身はまだなかった。
プロフィール欄には一言だけ。
〈今日、全部書きます〉
公開時刻は書かれていない。
それでも私は、午後五時という数字を思い出していた。
休み時間。
廊下へ出た私を、蓮が追ってきた。
「昨日から、変じゃない?」
「親友が死んだんだから、普通じゃないでしょ」
少し強く言いすぎた。
蓮は黙った。
「ごめん」
「いや」
窓の外では、体育の授業をしている一年生が走っていた。
私は聞いた。
「ねえ」
「何?」
「死んだ人のスマホ、見られるとしたら見る?」
蓮の表情が止まった。
ほんの一秒。
でも私は見逃さなかった。
「なんでそんなこと聞くの」
「別に。ちょっと思っただけ」
「見ない」
答えは早かった。
「どうして?」
「生きてたら勝手に見ないだろ」
「でも、死んでたら?」
「同じじゃない?」
私は黙った。
蓮は続けた。
「死んだからって、全部見ていいことにはならないと思う」
「もし、そこに死んだ理由が書いてあっても?」
今度は蓮が黙った。
「知りたいだろ」
「うん」
「でも、知りたいのと、見ていいのは別だろ」
その言葉が胸に刺さった。
知りたいのと、見ていいのは別。
私は昨夜からずっと、その違いをごまかしていたのかもしれない。
「じゃあさ」
私は続けた。
「本人が消してほしいって頼んでたら?」
蓮が私を見た。
「何を?」
「たとえば、アカウントとか」
「……そんなの、本人が生きてるうちに消せばいいじゃん」
もっともだった。
だからこそ、莉子は消せなかったのだ。
消す前に死んだから。
教室へ戻る途中、女子トイレの前で二人のクラスメイトが話しているのが聞こえた。
「莉子って、誰かに呼び出されたんじゃない?」
「でも警察、事故って言ってるんでしょ」
「警察だって全部分かるわけじゃないじゃん」
私に気づくと、二人は口を閉じた。
その沈黙のほうが、噂より痛かった。
莉子はもう、自分で否定できない。
違うと言えない。
笑ってごまかすことも、怒ることもできない。
だから生きている私たちが好きなように意味をつけられる。
自殺だった。
恋愛だった。
誰かに呼び出された。
そのどれも、莉子が選んだ言葉じゃない。
だったら私は、せめて莉子が「見ないで」と選んだ言葉くらい守るべきなのではないか。
そう思った直後、また別の考えが浮かんだ。
でも、そのせいで真実まで消えたら?
私は自分が何を守りたいのか、分からなくなった。
昼休み、莉子のお母さんからメッセージが届いた。
〈今日、少し話せないかな〉
放課後、駅前の喫茶店で会った。
昨日の喪服ではなく、灰色のセーターを着ていた。
一日で十歳くらい年を取ったように見えた。
「ごめんね。呼び出して」
「いえ」
莉子のお母さんはテーブルの上にスマホを置いた。
見覚えがある。
莉子のスマホだった。
「警察から返してもらったの」
画面は真っ暗だ。
「でも、開けないの。暗証番号が分からなくて」
私は息を止めた。
「美月ちゃん、知らない?」
首を横に振る。
本当だ。
知らない。
けれど私は、別のアカウントのパスワードなら知っている。
「最後に誰と話してたのかだけでも知りたいの」
莉子のお母さんは両手でカップを包んだ。
「どうしてあそこに行ったのか。何を考えてたのか。親なのに、何も知らないままなの」
親なのに。
その言葉が重かった。
「知る権利くらい、あると思わない?」
私は答えられなかった。
権利。
親だから。
親友だから。
好きだったから。
大切だったから。
そう言えば、人の秘密を開けてもいいのだろうか。
喫茶店を出たとき、午後四時二分だった。
スマホを見る。
予約投稿まで、あと五十八分。
私は駅前のベンチに座った。
ログイン画面を開く。
IDを入力する。
次に、パスワード。
最後の一文字を入れれば、中へ入れる。
莉子の声が頭に浮かぶ。
〈中は絶対に見ないで〉
私は指を止めた。
守るなら、何もしない。
でも何もしなければ、午後五時に何かが公開される。
約束を守ることと、莉子の秘密を守ることが、同じではなくなっていた。
画面の時計が切り替わる。
16:03。
あと五十七分。
私は初めて思った。
死んだ人との約束には、たぶん正解がない。
机の上に白い花。背もたれに掛けられたままの紺色のカーディガン。誰かが返し忘れた英単語帳まで、そのまま置かれている。
人が死ぬと、持ち物だけが急に持ち主を失う。
私は席に着き、スマホを鞄の底へ押し込んだ。
昨夜から何度も確認した。
予約投稿、今日の午後五時。
中身は分からない。
消すにはログインしなければならない。
でもログインしたら、見てしまうかもしれない。
「美月」
後ろから声をかけられ、肩が跳ねた。
振り返ると、同じクラスの新堂蓮が立っていた。
「大丈夫?」
大丈夫。
そう答えそうになって、やめた。
莉子がよく使っていた言葉だからだ。
「……平気」
結局、似たようなことを言った。
蓮は何か言いたそうにしたが、朝のホームルームを告げるチャイムが鳴った。
担任が教室に入ってくる。
いつもよりゆっくり教卓の前に立ち、莉子の席を見た。
「朝倉のことで、みんなに一つだけお願いがあります」
教室が静かになる。
「SNSに、根拠のないことを書かないでください。事故について憶測を広げるのもやめてください」
何人かが目を伏せた。
私は机の下で指を握った。
もう遅い。
昨夜から、莉子の名前を検索するといくつも投稿が出てきた。
〈彼氏と別れたらしい〉
〈自殺じゃないの?〉
〈歩道橋で誰かと揉めてたって〉
そして今朝、新しい匿名アカウントまで現れていた。
〈朝倉莉子が死んだ本当の理由〉
中身はまだなかった。
プロフィール欄には一言だけ。
〈今日、全部書きます〉
公開時刻は書かれていない。
それでも私は、午後五時という数字を思い出していた。
休み時間。
廊下へ出た私を、蓮が追ってきた。
「昨日から、変じゃない?」
「親友が死んだんだから、普通じゃないでしょ」
少し強く言いすぎた。
蓮は黙った。
「ごめん」
「いや」
窓の外では、体育の授業をしている一年生が走っていた。
私は聞いた。
「ねえ」
「何?」
「死んだ人のスマホ、見られるとしたら見る?」
蓮の表情が止まった。
ほんの一秒。
でも私は見逃さなかった。
「なんでそんなこと聞くの」
「別に。ちょっと思っただけ」
「見ない」
答えは早かった。
「どうして?」
「生きてたら勝手に見ないだろ」
「でも、死んでたら?」
「同じじゃない?」
私は黙った。
蓮は続けた。
「死んだからって、全部見ていいことにはならないと思う」
「もし、そこに死んだ理由が書いてあっても?」
今度は蓮が黙った。
「知りたいだろ」
「うん」
「でも、知りたいのと、見ていいのは別だろ」
その言葉が胸に刺さった。
知りたいのと、見ていいのは別。
私は昨夜からずっと、その違いをごまかしていたのかもしれない。
「じゃあさ」
私は続けた。
「本人が消してほしいって頼んでたら?」
蓮が私を見た。
「何を?」
「たとえば、アカウントとか」
「……そんなの、本人が生きてるうちに消せばいいじゃん」
もっともだった。
だからこそ、莉子は消せなかったのだ。
消す前に死んだから。
教室へ戻る途中、女子トイレの前で二人のクラスメイトが話しているのが聞こえた。
「莉子って、誰かに呼び出されたんじゃない?」
「でも警察、事故って言ってるんでしょ」
「警察だって全部分かるわけじゃないじゃん」
私に気づくと、二人は口を閉じた。
その沈黙のほうが、噂より痛かった。
莉子はもう、自分で否定できない。
違うと言えない。
笑ってごまかすことも、怒ることもできない。
だから生きている私たちが好きなように意味をつけられる。
自殺だった。
恋愛だった。
誰かに呼び出された。
そのどれも、莉子が選んだ言葉じゃない。
だったら私は、せめて莉子が「見ないで」と選んだ言葉くらい守るべきなのではないか。
そう思った直後、また別の考えが浮かんだ。
でも、そのせいで真実まで消えたら?
私は自分が何を守りたいのか、分からなくなった。
昼休み、莉子のお母さんからメッセージが届いた。
〈今日、少し話せないかな〉
放課後、駅前の喫茶店で会った。
昨日の喪服ではなく、灰色のセーターを着ていた。
一日で十歳くらい年を取ったように見えた。
「ごめんね。呼び出して」
「いえ」
莉子のお母さんはテーブルの上にスマホを置いた。
見覚えがある。
莉子のスマホだった。
「警察から返してもらったの」
画面は真っ暗だ。
「でも、開けないの。暗証番号が分からなくて」
私は息を止めた。
「美月ちゃん、知らない?」
首を横に振る。
本当だ。
知らない。
けれど私は、別のアカウントのパスワードなら知っている。
「最後に誰と話してたのかだけでも知りたいの」
莉子のお母さんは両手でカップを包んだ。
「どうしてあそこに行ったのか。何を考えてたのか。親なのに、何も知らないままなの」
親なのに。
その言葉が重かった。
「知る権利くらい、あると思わない?」
私は答えられなかった。
権利。
親だから。
親友だから。
好きだったから。
大切だったから。
そう言えば、人の秘密を開けてもいいのだろうか。
喫茶店を出たとき、午後四時二分だった。
スマホを見る。
予約投稿まで、あと五十八分。
私は駅前のベンチに座った。
ログイン画面を開く。
IDを入力する。
次に、パスワード。
最後の一文字を入れれば、中へ入れる。
莉子の声が頭に浮かぶ。
〈中は絶対に見ないで〉
私は指を止めた。
守るなら、何もしない。
でも何もしなければ、午後五時に何かが公開される。
約束を守ることと、莉子の秘密を守ることが、同じではなくなっていた。
画面の時計が切り替わる。
16:03。
あと五十七分。
私は初めて思った。
死んだ人との約束には、たぶん正解がない。



