ゴンドラが動き出した。
最初はほとんど動いた気がしなかった。
乗り場の屋根がゆっくり下へ流れていって、そこで初めて上がっているのだとわかった。
袋を膝の上に置き直すと、缶の結露で袋の内側が濡れていた。
地面がゆっくりと離れていく。
乗り場の音楽が、少しずつ遠くなると、人の声も、写真を撮る声も、下のほうへ置いていかれる。
かわりに、ゴンドラの金属がときどき軋む音がする。
窓の外は街が下がっていく。
空はもう、青を全部なくしていた。
かわりに、建物のほうが明るくなっている。
オフィスの窓、道路の街灯、車のライトの列……夕方だったはずの街が、上がっているあいだに夜になっていく。
さっき歩いてきた道が見えた。
あの通りをまっすぐ歩いて、あそこの交差点で信号を二回渡って、あのへんでジャケットを脱いだ。
あの角のカフェで、三時間、店舗の数字を並べていた。
もっと向こうに、たぶん取引先のビルがあるはずだけど、どれかはわからない。
同じような四角い建物が、いくつも並んでいる。
全部が小さくなっていく。
車が動いているのに、動いているように見えない。
人はもう点だ。
あの点のどれかが、今日の私だったかもしれない。
高さが半分を過ぎたあたりで、祐介のことを思い出した。
自分でも、少し不意打ちだった。
こういうところに、いつか二人で来る未来もあったのかもしれない。
祐介はたぶん高いところが得意ではないから、乗る前に「別によくない?」と言って、乗ったら乗ったで普通に窓を見る。
そういう顔が、簡単に想像できてしまう。
一度だけ、二人で花火を見に行ったことがある。
付き合って一年目の夏。
私が行きたいと言って、祐介が場所まで調べてくれた。
それなのに、着いたときにはもういい場所が全部埋まっていて、結局、木の枝が半分かぶるところから見た。
屋台で買った焼きそばを二人で分けた。
麺がのびていて、あまりおいしくなかったはずなのに、そのときは普通に食べていた。
人が多すぎて二人ともほとんど喋らないまま、花火の音だけが体の中に響くなか、隣で祐介がずっと空を見上げていた。
帰りは改札に入るまでに四十分かかった。
ホームでも人に押されて、私は彼のシャツの背中をつまんでいた。
電車に乗ってから、祐介が言った。
「来年はちゃんと場所取ろう」
「うん」
結局、次の年は行かなかった。
その次の年も……もちろん、今年も行っていない。
行かないまま、来年もあると思っていた。
十月に彼の誕生日がある。
去年は靴をあげた。
今年は何にしようかと、六月ごろに一度考えて、そのままにしていた。
もう考えなくていい。
来年の春に、二人でどこかへ行こうと話していた。
行き先の候補を、私はスマホのメモに三つ書いてある。
あれも、もう開かない。
タクシーの中の「来年くらいかなあ」も、なくなった。
昨日の朝までは、全部あった。
予定として、確かにそこにあった。
何も起きなければ順番に来るはずのものだった。
それが、一晩で消えた。
消えたというより、最初からなかったことになった感じに近いのかもしれない。
私の手元には、その予定が入っていたはずの空白だけが残っている。
目の奥が熱くなった。
窓のガラスに、自分の顔が薄く映っていた。
街の明かりの上に重なって、ぼんやりと徐々に滲んでいく。
思ったよりも、泣きそうな顔をしていた。
昨日は一度も泣かなかったのに……彼が帰ったあとも、荷造りをしているあいだも、新幹線でも、商談の前も。
ずっと平気な顔で来たのに、こんなところで。
鼻の奥がつんとして、私は下を向くと、膝の上にあるコンビニの袋が目に入る。
濡れた袋の内側で、缶がまだ冷たさを保っている。
その隣で、紙の箱がまだ温かい。
顔を上げると、外の景色がまた変わっていた。
ビルの上端が、視界の下のほうへ落ちている。
遠くに、黒く広がる海が見えた。
ゴンドラが頂上に近づくと、膝の上の袋に手を入れた。
袋から缶を出すと、表面がびっしり濡れていて、指がすべる。
膝で挟んで、手のひらをスカートで拭いてからもう一度持ち直した。
プルタブに指をかけると、プシュッという音が狭いゴンドラの中でやけに大きく聞こえた。
最初はほとんど動いた気がしなかった。
乗り場の屋根がゆっくり下へ流れていって、そこで初めて上がっているのだとわかった。
袋を膝の上に置き直すと、缶の結露で袋の内側が濡れていた。
地面がゆっくりと離れていく。
乗り場の音楽が、少しずつ遠くなると、人の声も、写真を撮る声も、下のほうへ置いていかれる。
かわりに、ゴンドラの金属がときどき軋む音がする。
窓の外は街が下がっていく。
空はもう、青を全部なくしていた。
かわりに、建物のほうが明るくなっている。
オフィスの窓、道路の街灯、車のライトの列……夕方だったはずの街が、上がっているあいだに夜になっていく。
さっき歩いてきた道が見えた。
あの通りをまっすぐ歩いて、あそこの交差点で信号を二回渡って、あのへんでジャケットを脱いだ。
あの角のカフェで、三時間、店舗の数字を並べていた。
もっと向こうに、たぶん取引先のビルがあるはずだけど、どれかはわからない。
同じような四角い建物が、いくつも並んでいる。
全部が小さくなっていく。
車が動いているのに、動いているように見えない。
人はもう点だ。
あの点のどれかが、今日の私だったかもしれない。
高さが半分を過ぎたあたりで、祐介のことを思い出した。
自分でも、少し不意打ちだった。
こういうところに、いつか二人で来る未来もあったのかもしれない。
祐介はたぶん高いところが得意ではないから、乗る前に「別によくない?」と言って、乗ったら乗ったで普通に窓を見る。
そういう顔が、簡単に想像できてしまう。
一度だけ、二人で花火を見に行ったことがある。
付き合って一年目の夏。
私が行きたいと言って、祐介が場所まで調べてくれた。
それなのに、着いたときにはもういい場所が全部埋まっていて、結局、木の枝が半分かぶるところから見た。
屋台で買った焼きそばを二人で分けた。
麺がのびていて、あまりおいしくなかったはずなのに、そのときは普通に食べていた。
人が多すぎて二人ともほとんど喋らないまま、花火の音だけが体の中に響くなか、隣で祐介がずっと空を見上げていた。
帰りは改札に入るまでに四十分かかった。
ホームでも人に押されて、私は彼のシャツの背中をつまんでいた。
電車に乗ってから、祐介が言った。
「来年はちゃんと場所取ろう」
「うん」
結局、次の年は行かなかった。
その次の年も……もちろん、今年も行っていない。
行かないまま、来年もあると思っていた。
十月に彼の誕生日がある。
去年は靴をあげた。
今年は何にしようかと、六月ごろに一度考えて、そのままにしていた。
もう考えなくていい。
来年の春に、二人でどこかへ行こうと話していた。
行き先の候補を、私はスマホのメモに三つ書いてある。
あれも、もう開かない。
タクシーの中の「来年くらいかなあ」も、なくなった。
昨日の朝までは、全部あった。
予定として、確かにそこにあった。
何も起きなければ順番に来るはずのものだった。
それが、一晩で消えた。
消えたというより、最初からなかったことになった感じに近いのかもしれない。
私の手元には、その予定が入っていたはずの空白だけが残っている。
目の奥が熱くなった。
窓のガラスに、自分の顔が薄く映っていた。
街の明かりの上に重なって、ぼんやりと徐々に滲んでいく。
思ったよりも、泣きそうな顔をしていた。
昨日は一度も泣かなかったのに……彼が帰ったあとも、荷造りをしているあいだも、新幹線でも、商談の前も。
ずっと平気な顔で来たのに、こんなところで。
鼻の奥がつんとして、私は下を向くと、膝の上にあるコンビニの袋が目に入る。
濡れた袋の内側で、缶がまだ冷たさを保っている。
その隣で、紙の箱がまだ温かい。
顔を上げると、外の景色がまた変わっていた。
ビルの上端が、視界の下のほうへ落ちている。
遠くに、黒く広がる海が見えた。
ゴンドラが頂上に近づくと、膝の上の袋に手を入れた。
袋から缶を出すと、表面がびっしり濡れていて、指がすべる。
膝で挟んで、手のひらをスカートで拭いてからもう一度持ち直した。
プルタブに指をかけると、プシュッという音が狭いゴンドラの中でやけに大きく聞こえた。



