観覧車とからあげとビール

 歩道が広くなって、街路樹が並び始めた。
 右のほうに大きな建物があって、そこを回り込むとまた観覧車が出てきた。

「さっきよりずっと大きい……」

 空はもう、青が上の端に少し残っているだけ。

 横断歩道の信号が赤。
 立ち止まって、腕にかけたジャケットを持ち直す。

 隣に自転車が停まって、乗っていた人が首のタオルで顔を拭いた。
 向かいの歩道では、大きなリュックを背負った男の子が親に何か言っている。
 信号が青になって、みんな一斉に歩き出すのに合わせて、歩き出す。

 観覧車が、また少し近くなった。
 道の先から、音楽みたいな音がかすかに聞こえてくる。
 人の声も混じっている。

 夏の夜のはじまりの音に聞こえた。

 自動販売機の前を通って、そこで初めて喉が渇いていることに気がつく。
 買おうかと思って、鞄から財布を出すのが面倒でやめた。
 歩きながら、口の中が乾いているのを舌で確かめる。
 汗が、こめかみから顎のほうへ落ちた。

 仕事を優先したから振られたのかな……そんな考えが一度だけ頭をよぎった。
 あのとき「来月落ち着くから」と嘘でも言っていたら、違ったのかもしれない。

 出張を誰かに代わってもらっていたら?
 担当が増えたとき、断っていたら?

 でも……今日、久保田さんに「悪くないと思います」と言われたとき、私はちゃんと嬉しかった。
 三十二という数字が出たとき、気持ちがよかった。
 あれは嘘じゃない。

 振られた翌日でも、あそこはちゃんと嬉しかった。
 だったら、仕事を大事にしてきた自分のほうを間違いだったことにするのも、たぶん違う気がする。

 そこまで考えて、私は少し疲れているのかもしれない……なんて思えてきた。
 結論なんて出ないし、出したところで祐介は戻ってこない。

 顔を上げると、観覧車はもう、見上げるほどの高さになっていた。

「おっき……」

 観覧車の真下まで来ると、思っていたよりずっと人がいた。
 乗り場のほうから音楽が流れていて、その周りに家族連れや若い子たちが固まっている。
 写真を撮っている人が何組もいる。
 みんな、下から見上げて、腕を伸ばして、うまく入らないと言って笑っている。

 少し離れたところで足を止めた。
 真下から見る観覧車は、道の途中で見たときと違って、もう全体が視界に入らない。
 首を後ろに倒さないと上が見えない。

 ゆっくり回っているはずなのに、近くで見るとちゃんと動いているのがわかる。

 乗り場の入口に、料金の書かれた看板が立っていた。

 乗るの?と自分に訊いてみた。
 答えは出なかった。
 そのかわりに、喉が渇いていることに気がつく。

 カフェを出てから四十分近く歩いている。
 ずっとぬるい風の中を歩いて汗をかいて、そのあいだ何も飲んでいない。
 顔を上げると、道路を挟んだ向かいにコンビニの明かりが見えた。

 自動ドアが開いた瞬間の冷気が、ありがたかった。
 まっすぐ飲み物の棚へ行く。

 お茶。
 水。
 炭酸……

 手を伸ばしかけて、その一つ左のケースが目に入った。

 ビール……金色の缶に、細かい水滴がついている。
 ケースの照明で、その水滴のところだけが光って見えた。

 そのまま通り過ぎた。

 明日、十時から商談。
 しかも今日の宿題を持っていく日で、ホテルに戻ったら資料の直しがある。
 飲むのはさすがにどうかと思う。

 お茶の棚の前に戻って、五百ミリのペットボトルを一本手に取り、レジのほうへ歩きかけて立ち止まった。

 直しといっても、三十分で終わる。
 数字はもう出ている。
 文字を整えるだけ。

 それに、明日の朝はどうせ早く目が覚める。
 昨日みたいに三時に起きるなら、いくらでも時間はある。

 冷蔵ケースを開けて、いちばん手前の缶を取る。
 手のひらに冷たさが張りついて、指の熱で水滴が溶けた。