昨日の夜も、私は嬉しかったのだ。
祐介と会うのは三週間ぶり。
七月の頭に一度、私の出張が入って流れて、その次も資料の締め切りが動いて流れた。
三回目にようやく予定が合って、うちで晩ごはんを食べることになった。
私は前の日に部屋を片づけた。
あの日は本当に、それだけの日になるはずだった。
祐介とは大学のときからだから、四年になる。
同じ学部で、三年の後期に同じゼミに入って、そこから就職。
彼は名古屋の会社に残って、私も名古屋に残って、それが当たり前みたいに続いていた。
入社して二年目の冬に、私は一度、大きなミスをした。
得意先に出す資料の数字を間違えて、気づかないまま送ってしまった。
上司と一緒に謝りに行って、戻ってきてから全部作り直して、その週はずっと終電だった。
自分がどうしようもない人間に思えて、誰にも会いたくなかった。
金曜の夜、来なくていいと言ったのに祐介がうちに来た。
彼はスーパーの袋を提げていて、断りもなくキッチンで鍋を作り始めた。
白菜と豚肉とえのきを切って、市販の鍋の素を入れただけの鍋。
何があったのかは、一度も訊かれなかった。
「食べたら寝ろ」
言われたのは、それだけ。
私はその鍋を食べながら、なぜか泣いた。
ミスをしたときも、謝りに行ったときも泣かなかったのに、白菜を食べていたら止まらなくなった。
祐介は困った顔をして、ずっとテレビのほうを見ていた。
あの人は食べるのが遅くて、私が食べ終わってもまだ鍋に半分残っていた。
私の仕事を、悪く言われたことは一度もない。
忙しいことを責められた記憶もない。
この前の会議どうだった、と本当に訊いてくるような人。
去年の秋に、彼の友達の結婚式があった時は、二人で出席して、帰りのタクシーの中で彼が「来年くらいかなあ」と言った。
何の話かはお互いにわかっていて、私は「そうだねえ」と答えた。
そのくらいの温度だった。
そして、ちょうどその同じ秋に、私は横浜の担当を引き継いだ。
担当が二つ増えて、出張が月に二回になり、企画を自分で作るようになって、社内の会議も増えた。
前は七時に会社を出られたのが、九時になった。
悪いことだとは、思わなかった。
むしろ、任されているのが嬉しかった。
嬉しかったから、そのぶん祐介に会えなくなっていることをちゃんと考えていなかった。
昨日、祐介はカレーを食べ終わってから、しばらく黙っていた。
私はそのとき、皿を下げて、コーヒーを淹れて……明日の出張の準備をしなきゃな、と思っていた。
びっくりするくらい、目の前の人のことを見ていなかった。
「あのさ」
振り向いたら、彼はテーブルの木目のところを見ていた。
「真帆の仕事が大事なのは、わかってるんだよ」
彼の言い方に、責める感じはなかった。
……あ……これは、まずいかもしれない……
「ほんとに、わかってる。この前の会議どうだった、とか、聞くの俺けっこう楽しいし」
「うん」
「でも、いつまで待てばいいのか、わからなくなった」
私は何か言おうとしたけれど、言葉が上手く出てこない。
来月は少し落ち着くから、と言いかけて、来月の第二週に大阪の出張が入っていることを思い出した。
その次の週は社内の企画会議で、その次は……と数えて、口を閉じた。
三秒か四秒……それだけだったと思う。
でも祐介には、たぶんそれで全部伝わってしまった。
「別れよう」
「そっか」
彼の言葉にそれ以上、何も出てこなかった。
「嫌いになったわけじゃない」
そんなことは、言われなくてもわかっていた。
誰かほかに人がいるわけでもないし、喧嘩をしたわけでもない。
ただ、この先を一緒に歩いている二人の姿が、彼にはもう見えなくなっていたのかもしれない。
それだけだ。
「ごめんなさい……」
「真帆が悪いんじゃないよ」
あれがいちばんきつかったかもしれない。
悪くないなら、どうしようもない。
悪いと言ってくれたら、直してほしいと言ってくれたら、直しますと言えたのに。
彼は十時前に帰った。
ドアを閉めて、鍵をかけて、部屋に戻って……彼が置いていった合鍵をしまったあと、キャリーケースを開けた。
明日の着替えを畳んで、下着を入れて、充電器を入れて、資料をクリアファイルに挟む。
振られた三十分後に、私は出張の荷造りをしていた。
自分でも、どうかしていると思う。
でも、ほかにやることがなかった。
泣くという選択肢が、なぜかその場に出てこなかった。
誰も悪くない別れというのは、面倒かもしれない。
怒れる相手がいない。
恨める相手もいない。
「あいつ最低だったよね!」
そんなふうに友達と笑い飛ばすこともできない。
全部ちゃんと話して、お互いに納得して、それで終わった。
納得しているのに、なくなったものはちゃんとなくなっている。
祐介と会うのは三週間ぶり。
七月の頭に一度、私の出張が入って流れて、その次も資料の締め切りが動いて流れた。
三回目にようやく予定が合って、うちで晩ごはんを食べることになった。
私は前の日に部屋を片づけた。
あの日は本当に、それだけの日になるはずだった。
祐介とは大学のときからだから、四年になる。
同じ学部で、三年の後期に同じゼミに入って、そこから就職。
彼は名古屋の会社に残って、私も名古屋に残って、それが当たり前みたいに続いていた。
入社して二年目の冬に、私は一度、大きなミスをした。
得意先に出す資料の数字を間違えて、気づかないまま送ってしまった。
上司と一緒に謝りに行って、戻ってきてから全部作り直して、その週はずっと終電だった。
自分がどうしようもない人間に思えて、誰にも会いたくなかった。
金曜の夜、来なくていいと言ったのに祐介がうちに来た。
彼はスーパーの袋を提げていて、断りもなくキッチンで鍋を作り始めた。
白菜と豚肉とえのきを切って、市販の鍋の素を入れただけの鍋。
何があったのかは、一度も訊かれなかった。
「食べたら寝ろ」
言われたのは、それだけ。
私はその鍋を食べながら、なぜか泣いた。
ミスをしたときも、謝りに行ったときも泣かなかったのに、白菜を食べていたら止まらなくなった。
祐介は困った顔をして、ずっとテレビのほうを見ていた。
あの人は食べるのが遅くて、私が食べ終わってもまだ鍋に半分残っていた。
私の仕事を、悪く言われたことは一度もない。
忙しいことを責められた記憶もない。
この前の会議どうだった、と本当に訊いてくるような人。
去年の秋に、彼の友達の結婚式があった時は、二人で出席して、帰りのタクシーの中で彼が「来年くらいかなあ」と言った。
何の話かはお互いにわかっていて、私は「そうだねえ」と答えた。
そのくらいの温度だった。
そして、ちょうどその同じ秋に、私は横浜の担当を引き継いだ。
担当が二つ増えて、出張が月に二回になり、企画を自分で作るようになって、社内の会議も増えた。
前は七時に会社を出られたのが、九時になった。
悪いことだとは、思わなかった。
むしろ、任されているのが嬉しかった。
嬉しかったから、そのぶん祐介に会えなくなっていることをちゃんと考えていなかった。
昨日、祐介はカレーを食べ終わってから、しばらく黙っていた。
私はそのとき、皿を下げて、コーヒーを淹れて……明日の出張の準備をしなきゃな、と思っていた。
びっくりするくらい、目の前の人のことを見ていなかった。
「あのさ」
振り向いたら、彼はテーブルの木目のところを見ていた。
「真帆の仕事が大事なのは、わかってるんだよ」
彼の言い方に、責める感じはなかった。
……あ……これは、まずいかもしれない……
「ほんとに、わかってる。この前の会議どうだった、とか、聞くの俺けっこう楽しいし」
「うん」
「でも、いつまで待てばいいのか、わからなくなった」
私は何か言おうとしたけれど、言葉が上手く出てこない。
来月は少し落ち着くから、と言いかけて、来月の第二週に大阪の出張が入っていることを思い出した。
その次の週は社内の企画会議で、その次は……と数えて、口を閉じた。
三秒か四秒……それだけだったと思う。
でも祐介には、たぶんそれで全部伝わってしまった。
「別れよう」
「そっか」
彼の言葉にそれ以上、何も出てこなかった。
「嫌いになったわけじゃない」
そんなことは、言われなくてもわかっていた。
誰かほかに人がいるわけでもないし、喧嘩をしたわけでもない。
ただ、この先を一緒に歩いている二人の姿が、彼にはもう見えなくなっていたのかもしれない。
それだけだ。
「ごめんなさい……」
「真帆が悪いんじゃないよ」
あれがいちばんきつかったかもしれない。
悪くないなら、どうしようもない。
悪いと言ってくれたら、直してほしいと言ってくれたら、直しますと言えたのに。
彼は十時前に帰った。
ドアを閉めて、鍵をかけて、部屋に戻って……彼が置いていった合鍵をしまったあと、キャリーケースを開けた。
明日の着替えを畳んで、下着を入れて、充電器を入れて、資料をクリアファイルに挟む。
振られた三十分後に、私は出張の荷造りをしていた。
自分でも、どうかしていると思う。
でも、ほかにやることがなかった。
泣くという選択肢が、なぜかその場に出てこなかった。
誰も悪くない別れというのは、面倒かもしれない。
怒れる相手がいない。
恨める相手もいない。
「あいつ最低だったよね!」
そんなふうに友達と笑い飛ばすこともできない。
全部ちゃんと話して、お互いに納得して、それで終わった。
納得しているのに、なくなったものはちゃんとなくなっている。



