観覧車とからあげとビール

 信号が変わって、私は歩き出す。

 絞った案。基準。数字。
 歩きながら、その三つを口の中で転がす。

 今日中に形にしなければいけない。
 ちょうどよかった、と思ってしまって、そのことに少しだけ嫌な気持ちになった。

 二本先の通りに、電源のありそうなカフェがあったのを思い出した。

 アイスコーヒーを頼んで、いちばん奥の席に座る。
 パソコンを開いて、まず本社にメールを打つ。

『店舗別の販売実績がほしい、直近一年分、できれば今日中に』と書いて、最後に『お手数をおかけします』と付け足す。

 送信して五分で、先輩から返事が来た。

『今日中って今日中? こっちもう三時なんだけど』
『すみません。明日の午前の商談で使います』
『了解。三十分ちょうだい』

 三十分もかからずにファイルが届く。
 ありがたい……今度お礼をしないといけない。

 そこから先は、ずっと数字と睨めっこ。
 百二十店舗を、化粧品の売上構成比で並べ替える。
 上から順に線を引きたくなるけれど、それだけだと「もともと強い店に置いただけ」になってしまう。

 久保田さんは基準を訊いてきた。
 何店舗ではなく、どこを選ぶ基準で、と。

 構成比の高い店。
 近くに競合の路面店がある店。
 四十代以上の客が多い店。

 三つの軸で色を塗り分けて、重なっているところを探す。

 三十二店舗が残った。
 三十二という数が出た瞬間、少しだけ気持ちがよかった。

 そのあとは早かった。
 三十二店舗でやった場合の什器の数、費用、想定の売上。
 グラフを一枚作り直して、ページを二枚差し替える。

 顔を上げたら、店の中の照明が明るく見えた。

 時計は六時四十分。
 外はまだ明るいけれど、光の色が変わっている。
 窓のガラスに、店内の照明が薄く映り始めていた。

 あとはホテルで文字を直すくらいで、三十分もあれば終わる。

 パソコンを閉じて、店を出た。
 空気が、昼間とは違うぬるさで待っていた。
 日は落ちかけているのに、アスファルトも建物の壁も、まだ昼のあいだの熱を抱えている。

 海のほうから風が来ているはずなのに、その風もぬるい。

 シャツが背中に貼りついているのがわかった。
 ジャケットの内側で、腕にも汗をかいている。

「暑……」

 立ち止まって、ジャケットを脱ぐ。

 肩から一気に軽くなる。
 腕にかけて、それでもまだ暑くて、私は顔を上げた。

「あ、観覧車……」

 道の先、ビルとビルのあいだから、思っていたよりずっと大きく。

 空はまだ上のほうに青が残っている。
 下のほうだけがオレンジと灰色に濁っていて、その境目のあたりに白と赤と緑の光がゆっくり回っていた。

 灯りはついたばかりらしい。
 まだ空のほうが明るくて、光が少し薄い。

 しばらく、そこに立ってぼうっと観覧車を眺める。

 この街に来たのは五回目。
 観覧車があることは、知っている。
 子どものころにテレビで見たこともあるし、去年の秋にここを引き継いだときにも地図で見た。

 それでも、実際に目に入ったのは初めて。

 思っていたよりも近い気がした。
 きっと、歩いて行ける距離。

 スマホを出して、時間を見た。

 六時五十五分。

 ホテルは、反対方向にある。
 地図のアプリを開きかけて、開かなかった。
 開かなくても、どっちがホテルかはわかる。

 部屋に帰ったら、パソコンを開いて文字を直してシャワーを浴びる。

 三十分……長くて一時間。

 そのあと……

 そこで、初めて気がついた。
 ホテルの部屋に帰ったら、私は一人になる……
 昨日までもそうだった。
 出張先のホテルなんて、いつだって一人。

 何も変わらない。
 何も変わらないはずなのに、今日はその部屋のことを考えたくなかった。

 観覧車が回っている。
 速いのか遅いのかもわからないくらい、ゆっくり。

「きれい……」

 素直に口から出た言葉。
 それ以上の理由は、たぶん今の私にはない。

 ホテルに帰りたくなかった、というのもある。
 でも、口に出すなら、きれいだったから、で充分だと思った。

 ジャケットを腕にかけたまま、私は観覧車のほうへ歩き出した。
 歩き出してすぐ、観覧車はビルの陰に入って見えなくなった。

 方向はわかっているので、そのまま進む。

 信号を二つ渡った大きな交差点で、スーツの人と、そうでない人の割合が半分ずつくらいになる。
 仕事の終わった人と、これから遊ぶ人が同じ横断歩道を逆向きに歩いている。

 道の途中で、風が変わった。
 少し湿っている……海が近いからかもしれない。