新横浜のホームに降りた瞬間、空気が変わった。
名古屋も暑かったけれど、こっちのほうが少し重い。
海が近いからだろうか……ホームの屋根の下にいても、風がぬるい。
横浜駅まで出て、そこから電車を乗り換える。
私が横浜に来るときのルートはいつも同じで、もう考えなくても足が動く。
この取引先を引き継いだのは去年の秋だから、来るのは四回目か五回目。
地上に出ると、また熱がむわっとする。
時計を見ると、まだ十時を少し過ぎたところだった。商談は一時から。
早い便に乗ったせいで、三時間近く余っている。
あまりの暑さに、そのまま近くの地下街へ逃げるように下りた。
喫茶店が一軒。
入口のケースに食品サンプルのケーキが並んでいて、看板の字が丸い。
地下なので窓はない。昼前の時間だからか、中は半分も埋まっていなかった。
いちばん奥の席に座って、ホットコーヒーを頼む。
さっきまであんなに暑かったのに、冷房が強くて冷たいものを飲む気になれなかった。
資料を出して、また最初のページから見ていく。
新幹線で十回目だったから、これで十一回目。
鞄の外ポケットに、朝のサンドイッチがまだ入っている。
触るとぬるくなっていた。もう食べないだろう、と思ったけれど、捨てるのも面倒でそのままにした。
腕をさすってコーヒーを飲むと、冷房のせいかぬるかった。
スマホを見ると、通知はゼロ。
ゼロで当たり前。
この時間に私に連絡してくる人なんてもともといない。
それでも一度確認して、伏せた。
顔を上げると、奥のテーブルでスーツの男の人が二人、書類を広げて話している。
カウンターにも一人、パソコンを開いている人がいた。誰も観光の顔をしていない。
私も同じだ。
横浜まで来て、駅とホテルと取引先を往復して、明日の夕方には名古屋に帰る。
前に来たときもそうだったし、その前もそうだった。
海が近いことは知っているし、有名な中華街があることも、赤レンガの建物があることも知っている。
なのに行ったことは一度もない。
別に、それを残念だと思ったこともなかった。
十二時半に店を出た。
トイレに寄って、鏡を見る。
思っていたよりひどくはない……目の下は少し暗いけれど、これくらいなら隠せる。
ポーチからうちのコンシーラーを出して、指先で叩き込む。
去年の春に出たやつで、今は私が担当している商品じゃないけれど、これがいちばん自分の肌に合う。
前髪を直すと、最後にジャケットを着た。
袖を通すと、背筋のあたりが少しだけ変わる。
夏でも私はこれを持ち歩く。
着るとちゃんと仕事の人になれる気がするからで、たぶん……その気がするだけなんだけど。
鏡の中の私は、普通に働いている二十六歳の顔。
「よし」
小さく呟いて、トイレを出た。
取引先のビルは、そこから五分もかからない。
エントランスを入って受付の電話をかけると、すぐに『少々お待ちください』と返ってきた。
三分ほどで、エレベーターから男の人が降りてきた。
「北村さんですか。羽鳥です」
羽鳥さんとは、この半年ずっとメールでやりとりしていた。
オンラインの打ち合わせも二回した。でも、直接会うのは今日が初めて。
名刺を交換する。
画面で見ていたときより、ずっと背が高い。
「暑かったでしょう。今日、名古屋からですよね」
「はい。朝早い便で来たので、まだ少しマシなうちに着けました」
「それは正解ですね。うち、このあたり昼過ぎからいちばん暑くなるんですよ」
エレベーターに乗ると、八階のボタンを押しながら羽鳥さんが言った。
「そういえば、先週メールでいただいた棚の割付の件、こちらで店舗のほうに確認しておきました。あとで数字お渡しします」
あれは私が、返事はいつでもいいです、と書き添えて送った質問だった。
「ありがとうございます。助かります」
「いえ。こちらも知りたかったので」
八階で降りて、廊下を歩く。
突き当たりの会議室に通されると、もう一人、久保田さんという課長がいた。
この人とも、前にオンラインで一度顔を合わせている。
資料を配り、パソコンをつないで、画面が映るのを確認する。
時計は十二時五十八分。
「じゃあ、始めましょうか」
名古屋も暑かったけれど、こっちのほうが少し重い。
海が近いからだろうか……ホームの屋根の下にいても、風がぬるい。
横浜駅まで出て、そこから電車を乗り換える。
私が横浜に来るときのルートはいつも同じで、もう考えなくても足が動く。
この取引先を引き継いだのは去年の秋だから、来るのは四回目か五回目。
地上に出ると、また熱がむわっとする。
時計を見ると、まだ十時を少し過ぎたところだった。商談は一時から。
早い便に乗ったせいで、三時間近く余っている。
あまりの暑さに、そのまま近くの地下街へ逃げるように下りた。
喫茶店が一軒。
入口のケースに食品サンプルのケーキが並んでいて、看板の字が丸い。
地下なので窓はない。昼前の時間だからか、中は半分も埋まっていなかった。
いちばん奥の席に座って、ホットコーヒーを頼む。
さっきまであんなに暑かったのに、冷房が強くて冷たいものを飲む気になれなかった。
資料を出して、また最初のページから見ていく。
新幹線で十回目だったから、これで十一回目。
鞄の外ポケットに、朝のサンドイッチがまだ入っている。
触るとぬるくなっていた。もう食べないだろう、と思ったけれど、捨てるのも面倒でそのままにした。
腕をさすってコーヒーを飲むと、冷房のせいかぬるかった。
スマホを見ると、通知はゼロ。
ゼロで当たり前。
この時間に私に連絡してくる人なんてもともといない。
それでも一度確認して、伏せた。
顔を上げると、奥のテーブルでスーツの男の人が二人、書類を広げて話している。
カウンターにも一人、パソコンを開いている人がいた。誰も観光の顔をしていない。
私も同じだ。
横浜まで来て、駅とホテルと取引先を往復して、明日の夕方には名古屋に帰る。
前に来たときもそうだったし、その前もそうだった。
海が近いことは知っているし、有名な中華街があることも、赤レンガの建物があることも知っている。
なのに行ったことは一度もない。
別に、それを残念だと思ったこともなかった。
十二時半に店を出た。
トイレに寄って、鏡を見る。
思っていたよりひどくはない……目の下は少し暗いけれど、これくらいなら隠せる。
ポーチからうちのコンシーラーを出して、指先で叩き込む。
去年の春に出たやつで、今は私が担当している商品じゃないけれど、これがいちばん自分の肌に合う。
前髪を直すと、最後にジャケットを着た。
袖を通すと、背筋のあたりが少しだけ変わる。
夏でも私はこれを持ち歩く。
着るとちゃんと仕事の人になれる気がするからで、たぶん……その気がするだけなんだけど。
鏡の中の私は、普通に働いている二十六歳の顔。
「よし」
小さく呟いて、トイレを出た。
取引先のビルは、そこから五分もかからない。
エントランスを入って受付の電話をかけると、すぐに『少々お待ちください』と返ってきた。
三分ほどで、エレベーターから男の人が降りてきた。
「北村さんですか。羽鳥です」
羽鳥さんとは、この半年ずっとメールでやりとりしていた。
オンラインの打ち合わせも二回した。でも、直接会うのは今日が初めて。
名刺を交換する。
画面で見ていたときより、ずっと背が高い。
「暑かったでしょう。今日、名古屋からですよね」
「はい。朝早い便で来たので、まだ少しマシなうちに着けました」
「それは正解ですね。うち、このあたり昼過ぎからいちばん暑くなるんですよ」
エレベーターに乗ると、八階のボタンを押しながら羽鳥さんが言った。
「そういえば、先週メールでいただいた棚の割付の件、こちらで店舗のほうに確認しておきました。あとで数字お渡しします」
あれは私が、返事はいつでもいいです、と書き添えて送った質問だった。
「ありがとうございます。助かります」
「いえ。こちらも知りたかったので」
八階で降りて、廊下を歩く。
突き当たりの会議室に通されると、もう一人、久保田さんという課長がいた。
この人とも、前にオンラインで一度顔を合わせている。
資料を配り、パソコンをつないで、画面が映るのを確認する。
時計は十二時五十八分。
「じゃあ、始めましょうか」



