観覧車とからあげとビール

 私、北村真帆は昨日の夜、四年付き合った人に振られた。

 そして今朝、私は新幹線に乗っている。
 無理をして出てきたわけじゃない。一か月前から決まっていた出張だ。
 失恋したからといって、出張がなくなるわけではない。

 名古屋駅の新幹線ホームは、八時前だというのにもう暑かった。
 立っていると、線路の砂利のあたりから熱が上がってくるのがわかる。
 七月の下旬。今年も暑い夏になるらしい、と昨日の天気予報が言っていた。

 本当は、十時台の便でも間に合った。
 商談は午後一時からだ。それなのに、なんとなく早い時間を選んで私はここにいる。

 乗る前に、売店でサンドイッチとコーヒーを買う。

 いつもの癖。
 名古屋から新横浜までは一時間半もかからないから、読むものがあるときはだいたい車内で朝ごはんを済ませてしまう。

 席に着いて、コーヒーの蓋を開けてサンドイッチの包みも開けた。
 たまごのやつ。一口食べて、そこで手が止まった。

 包み直して、鞄の外ポケットに入れた。
 コーヒーだけ飲むことにする。

 発車のベルが鳴ると、ドアが閉まってホームが後ろへ流れていく。

 スマホを出して、トーク画面を開くと指が勝手に動く。

『今から乗る』

 打ってから、気づいた。

 一文字ずつ消す。
 全部消えたあと、画面の一番下には一昨日のやりとりが残っていた。
『傘持った?』『持った』それだけ。
 なんでもない日の、なんでもない会話。

 昨日のことは、ここには一行も残っていない。
 全部、直接だったから。

 スマホを伏せて、テーブルの隅に置くと、かわりに資料を出す。

 秋に出る新商品の店頭販促の企画書。
 取引先は横浜に本社があるドラッグストアチェーンで、うちの化粧品をずっと扱ってもらっている。
 今日はそこで一時間半のプレゼン。
 明日もう一度うかがって、条件のところを詰める二日間。

 入社四年目。
 主担当として自分の企画を持っていくのは、今回が初めてだ。

 課長には「もう一人で大丈夫やろ」と言われて同行はない。
 大丈夫やろ、と言われたときは、けっこう嬉しかった。

 それが一週間前の話。

 資料をめくる。
 二十二ページ。
 先週から数えて、たぶん十回目くらい。
 今さら新しい発見はない。

 それでもめくる。
 ここのグラフの色、もう少し薄くてもよかったかな……とか、そういうことを考える。
 考えているあいだは、ほかのことを考えなくていい。

 車内は冷房が効きすぎていて、腕が少し冷たいけど、着るほどではない。
 ジャケットは膝の上に畳んで置いてある。

 出張は、わりと好き。
 名古屋から出るというだけで、少し得をした気になる。
 行き先が決まると、帰りに何を買おうかとか、駅ビルのどこに寄ろうかとか……そういうことを勝手に考え始める。
 横浜なんて、行く前から一つや二つ思いつきそうなものだ。

 今回は、まだ一度も考えていない。

 昨日は、ほとんど眠れなかった。
 三時に目が覚めて、それから五時まで天井を見ていた。
 五時を過ぎたら部屋が明るくなってきて、もういいや、と思って起きた。

 でも、泣いてはいない。
 昨日の夜も、今朝も。一度も。

 案外、私は平気なのかもしれない。

 窓のブラインドは、乗ってから一度も上げていない。
 この席を取ったのは一か月前で、そのときはちゃんとE席を選んだ。

 富士山が見える側。
 何度も乗っている区間なのに、私はいまだにあの山が窓の端に入ってくるのを待ってしまうところがある。
 三島を過ぎたあたりで、後ろの席の親子の会話が聞こえてくる。

「ふじさん」
「そうだねえ」

 私は資料から顔を上げなかった。

『まもなく新横浜です』

 アナウンスが流れる。
 資料を閉じて鞄にしまい、ジャケットを膝から持ち上げた。

 外ポケットのサンドイッチは、そのままにしておいた。