文豪軍神と偽りの婚約者 ~鬼の血を継ぐ忌み娘は、虐げられた先に生涯の伴侶と出会う~


国防軍本部から出ると、馬車に乗った。
向かったのは、帝都中心部の外れにある緑豊かな場所。

(すごい…帝都中心部にも、このような場所があるなんて…)

十歳まで住んでいた借家があった場所のようだった。
車窓からぼんやりと外を眺めていると、流れるように見えていた風景がしっかりと見え始めた。

「ここだ」

馬車が止まり、扉を開けると先に降りる司。
司が菫に手を差し出すと、緊張しながらもその手に触れた。
菫が下りると、馬車はすっと姿を消した。
降りた先にあったのは、立派な門構え。
『高槻』と記された門札や重厚な門構えからは、何百年も続く家の歴史が感じられた。
敷地に入る前から名家の風格を感じた。

「わ…すごい…」
「家は広くて落ち着かない。だから私は、離れで過ごしている」

門から家まで石畳が続いている。
中庭の方に視線を向けると、離れがありそれを指さした。
菫も合わせてそちらを見るが、その建物に息を飲んだ。

「あれが離れ…ですか?」

本邸よりは小さい。
けれど“離れ”と呼ぶにはあまりにも立派で、一般的な家なら何家族も暮らせそうなほどの大きさだった。

「そうだが?」

不思議そうにする菫に、同じような反応をする司。
やはり、彼とは住む世界が違うと改めて実感した。

「――あら、坊ちゃん。お帰りなさいませ」

菫がぼんやりとしていると、中庭の方から声が聞こえた。
そちらに目を向けると、初老の女性が竹ぼうきを持っていた。

「…タエ。人前で坊ちゃんなどと呼ばないでくれ」

タエの方を見て、ちらりと菫に目を配る。
司の隣に女性がいるのが分かると、ぱぁっと表情が明るくなり小走りで駆けよって来た。

「まぁまぁ…! これは失礼いたしました。初めまして、私は高槻様の家に代々仕えております。女中のタエと申します」

菫に嬉しそうに挨拶をするタエ。

「は…初めまして。黒宮菫と申します」

菫も同じように挨拶を返せば、改めて菫をまじまじと見つめた。。
司が女性を連れてくるのは初めてのことで、嬉しさで口元が緩む。

「ところで坊ちゃん。菫様とはどのような…?」
「…私の婚約者だ」

人前では『坊ちゃん』と呼ぶなと注意したばかりだが、タエに直す気がないと悟った司は、諦めたようにぼそりと答えた。

「まぁまぁ、婚約者…えぇっ!? こ、婚約者っ!?」

うんうんと頷きながら話を聞いていたタエが、目を見開いた。

「まぁまぁ…! それでは、坊ちゃんは本邸へ移動しなくてはなりませんね」

幼い頃からずっと世話をしてきた司。
しかし、女性の影が一度もなかったことをタエはとても心配していた。
そんな司に良い話が舞い込み、タエは自分のことのように喜んだ。

「いや、私は離れのままで良い。ただ、菫は本邸で住む。便利が良いのは、本邸の方だろう」

けれど、司の言葉にタエは目を見開いた。

「何をおっしゃっているんですか。これから夫婦になるというのに…まさか坊ちゃん――照れているのですか?」

ポッと頬を赤くするタエ。

「戯けたことを申すな。籍も入れてない男女が同じ屋根の下でなど暮らせるか」
「? 婚約者、でしょう? それなら、いずれは一緒に暮らします。結婚前に同じ家で住むというだけではありませんか」

司の言葉に小首を傾げ、不思議そうにするタエ。
名家ということもあり、婚約者という立場を偽りで使っているとは言えないのだろう。
言葉に詰まる司を見て、菫は緊張しながらもとある決意をした。

(今度は…私が、なんとかしないと)

二人の話を聞き、菫がおずおずと口を開いた。

「あ、あの…司様が迷惑でなければ、私も離れに住んでは…いけませんか…?」
「――菫。自分が何を言っているのか分かっているのか?」

菫の言葉に、司は目を丸くした。

「そうですよね。菫様の方が、分かっていらっしゃるではありませんか。ささ、菫様。離れはこちらです」

タエがそう告げると、司を差し置いて菫を連れて離れの方へ向かった。
離れの中へと入ると、外から見た通りやっぱり立派な造り。
中を一通り案内すると、タエは嬉しそうに話した。
その途中、タエが菫の着物が綻びがあり、他の箇所もつぎはぎだらけの古着同然の着物であることに気づき、司が少し視線を外したところでこそっと耳打ちをした。

「菫様――少し、よろしいですか?」
「え? えぇ…えっと…?」
「坊ちゃん。菫様を少しお借りしますね」
「まったく…菫の部屋はあちらにしようと思っている。用が済んだら連れてきてくれ」

タエの様子に、浅い溜息を吐く司。
廊下の突き当たりの部屋に視線を向ければ、タエはこくりと頷いた。

「はい。もちろんでございます。ささ、菫様。こちらはどうぞ」
「は、はい…」

ニコニコと笑みを浮かべるタエについて歩いた。
部屋の前に着くと、襖が開く。
中へ入ると、そこは何百年と愛される老舗のものから、若者に大流行しているハイカラなものまで揃った衣装部屋だった。

「奥様のお着物に少し、綻びが見えましたのでーーよろしければ、こちらからお好きなお着物、お洋服をお選びください」
「えっ…い、いえっ…そんな…!」

着物と洋服がずらりと並ぶ部屋。
一番近くにある服でも、菫が着ている着物とはまるで違う上等な品。

(こんなの…私なんかが、着て良いわけがないーー)

伏し目がちになり、首を横に振った。

「菫様。お言葉ですが、貴女様はじきに高槻家の奥方様となるのです。そのようなお方が、綻んでいるお着物をお召しになるなんてーー」
「っ…も、申し訳っーー」

タエの言葉を遮って、謝ろうとしたが、それにも負けない勢いでタエが口を開いた。

「それでは、女中である私が奥方様に着せているように見られてしまいます。一流の家には、一流の女中がついているもの。このタエを助けると思って、着てはいただけませんか?」

柔らかい笑みを浮かべて告げるタエに、菫は目を丸くしながらも小さく頷いた。

(どうして…? どうして、司様もタエ様も…私に優しくして下さるの…?)

高槻家へ来た時、菫は自分のような者が司の婚約者だと知れば、タエにもきっと罵られると思っていた。

「まぁ…! ありがとうございます。それでは、お召し物をお選びください。菫様は普段、どのようなものをお召しになることが多いですか? こちらの淡いワンピースなんて、愛らしいと思いますよ」

タエが嬉しそうに衣装を勧めていく。
古着同然の着物しか着たことがない菫にとって、勧めてくれたワンピースへの憧れは凄まじかった。
書見処では、自分だけ何度も繕った着物で、他の女中達はハイカラな洋服を着ているのが羨ましかった。
手を伸ばしそうになるけれど、菫はハッと我に返った。

(ダメ…私の体は汚いものーー肌が見えないものにしなくては)

着物の下には、何かと理由をつけて白崎家の当主と紅葉から付けられた傷や痣がある。
ワンピースのように腕や足が見える物を着てしまえば、みっともない手足が露わになってしまう。
そう思うと、自然と着物の方に目をやった。

(私でも着て良いものーーそんなの、高槻家にあるわけがない)

どれを見ても上等な品ばかり。
自分が触れるのも烏滸がましく思えてくると、じっと着物を見るだけになってしまった。

「菫様ですと、このお色なんてどうでしょう? お名前と同じく“菫”も描かれていますよ」

着物を見つめていると、タエが勧めてきたのは淡い紫色を基調とし、足元から腰元にかけて菫が描かれている着物だった。

「私と…同じ…」

どれを選んだら良いかわからなかった。
けれど、勧められた着物を見た時、何かを感じた気がした。

「それ…着ても…?」
「えぇっ! もちろんでございます。お着替えの前にーー菫様はお化粧なさいませんか?」
「お、お化粧なんて…私なんかが…」

首を横に振る。
していいわけがないと思い込まされているのだ。

『ブッサイクな顔』
『アンタはそのまま店に出なさい。アンタみたいな不細工、誰も見てないわよ』

当主や紅葉から受けた言葉が胸を締め付ける。

「えぇっ! そんなことございませんよ? 菫様がお化粧を施せば、今よりもっと素敵になります」
「私が…?」
「えぇっ。私、お化粧が好きなもので。私に少しお付き合い頂けませんか?」

にこりと柔らかく笑うタエだが、言い終える前に菫を化粧台の前に座らせていた。
返事をする前に、慣れた手つきで進めていく。
そして、十数分後には目元の化粧をするため、目を閉じるよう言われた。

「ーー菫様。目をお開けください」
「は、はいーーっ」

目を開けた先に映る鏡には、血色が良く街を楽しそうに行き来する年頃の娘と変わらない姿の自分が映っていた。

「これがーー私?」
「えぇ。とってもお似合いですよ」

タエは目尻の皺を深くして、嬉しそうに笑った。

「髪はどうしましょう? 菫様の髪は長いですから、色々な髪型ができますよ?」
「え、えぇっと…タエ様なら、どう…しますか? 私、疎いもので…」
「様、だなんておよしください。菫様。そうですねぇ…私なら髪は下ろしたまま、髪飾りを付けますかね。髪飾りもこちらに色々とございまして…こちらなんていかがでしょう?」

タエが化粧台の横にある引き出しを開けると、中にはずらりと髪飾りが並んでいた。
その中から一つ、淡い青の髪飾りを取り出せば、鏡越しに尋ねた。

「わ…綺麗…」
「そうでしょう? お着物にも合って、ぴったりかと思いまして。それでは、髪を整えてからつけさせていただきますね?」

にこりと柔らかい笑みを浮かべて尋ねるタエにこくりと頷く菫。
櫛で菫の髪を梳いていると、笑みを浮かべた。

「あの…ここはすごい、ですね。着物も洋服も化粧道具や小物までたくさんあって…」

綺麗にしてもらっても、鏡の中の自分をじっと見るのはまだ気恥ずかしい。
菫は視線を逸らすように、恐る恐るタエへ話しかけた。

「坊ちゃんに送られてくるものが多くて。ふふ、人気がある証拠ですね?」
「えっ…」

タエは嬉しそうにするけれど、菫の内心は複雑だった。

(やはり、私がご迷惑をかけているんだ…これらだって、女性のために買われてるのに、私が…)

目を伏せていると、背後から声がした。

「さぁ、できましたよ」

ポンと優しく肩に手を置くと顔を上げた。
髪に付いた綺麗な髪留めに口元が緩んだ。

「すごい…お上手ですね。タエさん」

鏡に映る自分でさえ、見違えるほど綺麗に見えた。

「ふふ。菫様からそのようにおっしゃっていただけたら、女中冥利につきます。ささ、お召し物を着替えましょう。お手伝いいたしますよ」

そう言うと、菫に手を伸ばすタエ。
しかし、その手を避けるように身を引く菫。

「あっ…」

失礼な行動をしてしまい、思わず声を漏らす菫。

(っ、タエさんは良かれと思ってしてくれたのに…私は…)

襟元をきゅっと握る。
着替えているところを見られてしまえば、体にある傷や痣があることもバレてしまう。
それを見られてしまえば――そう思うと、この高槻家の優しさに身を委ねる勇気は、まだ菫にはなかった。

「申し訳ございません。それでは私は外で待っております」
「あっ…えっと…」

言葉を続けようとしたけれど、タエは部屋から出た。
その姿に、ちくりと胸が痛む。

(申し訳…ございません…)

菫は心の中でそっと謝ることしかできなかった。

***

「これでいい、の…かな」

着替えを終えると、鏡に映る自分を見る。
やはり、上等な着物が似合うような人間ではない。

(やっぱり、着替え直した方が…でも、外ではタエさんが待っている…)

そう思うと、これ以上待たせるわけにはいかないと障子を開けた。

「まぁまぁ…! よくお似合いです、菫様」

障子を開けると、そこにはタエがぱぁっと表情を明るくさせて待っていた。

「あ…ありがとうございます…あの、タエさん…」
「はい? どうなさったのですか?」

うんうんと何度か頷いて菫の姿を満足そうに見るタエ。

「さ…先ほどは、大変失礼な態度で…不快な思いをさせてしまい、申し訳ございませんでした」

深々と頭を下げて謝ると、タエがおろおろとし菫の頭を上げさせた。

「さ…先ほど? そんな、菫様が頭を下げるようなこと私はされていませんよ…? それに、私は菫様のお世話をする女中です。菫様にそのように頭を下げられては、こちらが困ってしまいます」

タエの言葉を聞けば、また昔のことが蘇る。

『誰が頭を上げていいといったの!』
『床を舐めるつもりで、頭を下げなさい!』

当主と紅葉は、菫の些細なミスでも許さなかった。
それと比べると、やはりタエの言葉は優しかった。

「でも、タエさんに失礼なことを…」

頭を上げ、タエに恐る恐る伝えるが、彼女は優しい表情で首を横に振った。

「嫌なことを嫌だと示すのは、失礼ではございませんよ」

その言葉に、菫は目を丸くした。

(そんなこと…誰も、言ってくれなかった…)

パチパチと瞬きする回数が増えると、タエが胸の前で手をパチンと合わせた。

「さて、準備も整ったことですし、お部屋へ参りましょう」

しんみりとした雰囲気を、タエの優しさがすくい上げた。
タエが先を歩き、その後ろをついて歩く菫。
廊下の突き当りにある部屋に到着すると、障子越しにタエが声をかけた。

「坊ちゃん。菫様をお連れしました」
「――あぁ」

短い返事が聞こえると、タエが障子を開ける。
その部屋には、一つの壁一面に天井まで届く本棚があり、本でびっしりと埋まっている。
反対側には化粧台と箪笥が並び、その傍らには真新しい布団まで用意されていた。

「ここなら、他の部屋よりも本の数が少なくて寝るのに問題ない。過ごしにくければ、本邸に――」

部屋を見渡しながら説明をし、言い終えかけた時に菫に視線を向けた。
初めて、菫が街を歩く年頃の娘と変わらない姿となったのを見ると、息を飲んで目を少し見開く司。

「っ、も…申し訳ありません。私なんかが、勝手に着替えて…」

司の視線に耐えきれず、障子に半身を隠す菫。
その言葉にハッとして「こほん」と咳払いをする司。

「いや、謝ることではない。その…似合っている、と…思う」

言葉の歯切れが悪くなる司。
そんな様子の司を見るのは初めてで、タエの口元が緩む。

「あらあら、坊ちゃん…もう少し、おっしゃることはございませんか?」
「…何がだ」

タエと話すと、すんといつも通りの彼に戻ってしまう。

「あ、あの…でも、やっぱり、私なんかが着てよかったのですか…? これ、司様がその…他の方への贈り物としてご用意されたのでは…?」
「? いや、それは私が購入したわけではないが?」
「えっ…? で、でも、先程タエさんから…司様に送られるものが多い、と…その、人気があるから…と」

司が誰かのために用意した品だと思うと、菫はますます遠慮がちに尋ねた。
そして、菫の言葉を聞いて「あぁ…」と、納得したように声を出した。

「タエ。話したのか?」
「えぇ。坊ちゃんが人気があるのはよろしいことではございませんか」
「菫は、知らないんだ。私が――それらを貰う理由を」
「えぇっ!?」

司はちらりと菫に視線をやってタエに話した。
タエは、司のとある真実を知らないと知り目を丸くした。

(どういうこと…? 司様が購入したのではなく、司様が貰った、って…?)

菫は一人、小首を傾げていた。

「…タエ。少し外してくれ」
「かしこまりました」

言いにくそうにする司と、すんなりと引き下がるタエ。

「菫、こちらへ」

そう言うと、本棚の前にいる司が菫に手招きをした。

「は、はい…」

部屋の中に入り、彼と並んで本棚の前に立った。

「これ、何と書いてある?」
「えっと…笠高月津、ですね。この本は、笠高先生が書いた大衆小説で、以前発表された推理小説が大きな話題を呼んで、その続編として知られている人気作…ですよね?」

笠高の本を指さす司に、自身が持っている知識も伝える。
しかし、司はぴくりと眉を動かした。

「さすがはよく知っているな。この著者の名前。何度か繰り返し言ってみろ」
「はい…? 笠高月津、笠高月津、かさたかつきつ、かさたかつきつかさたかつきつかさたかつきつかさ…たかつきつかさ…高槻、司…?」
「…そういうことだ」

何度か名前を繰り返し呼ぶことで、ようやく分かった。
笠高月津――それが、高槻司の作家としての名なのだ。

「えっ…えぇっ!? 司様が、あの…笠高先生…!?」
「そうだ。私は、軍人という立場であるため笠高月津という名前で執筆していることを周囲に知られるわけにはいかない。そのため、笠高月津は全ての情報を不詳にしてあるんだ」

驚きから口をパクパクさせている菫に、司は淡々と述べた。

「――っ、も、申し訳ございませんっ…!」

菫は烈火のごとく、ボッと真っ赤になった顔を手で押さえた。

「今のどこに、謝る必要がある」
「だ、だって…私っ…司様の前で、何度も…何度も偉そうにっ! 本のことをっ…! 笠高先生のことをっ…!」

初めて会った日、クレームだと思った司の言葉に笠高の小説の世界観を熱弁したこと。
出会って何度か話してから、彼の処女作が一番好きと伝えたけれど、その話の内容の中に『荒々しい描写もあるのですけれど、一番感情的』と評論するようなことを言ってしまったこと。
そして――持っている人が限られるという特別仕様の本を血で汚してしまったこと。
非礼だったと思える数々の言動が蘇り、菫は羞恥で消えてしまいたくなった。

「私は、とても嬉しかった」
「えっ…?」
「書見処で他の棚と全く違う並べ方をしてまで、笠高月津の作品に感銘を受けてくれたと…そして、表情をコロコロと変えながら作品を楽しんで読む者を目の前にして、嬉しくないわけがないだろう」

司がそっと優しく菫の手首を掴み、顔を隠す手を左右に広げる。
目を合わせるのも恥ずかしいと思っていたけれど、彼のその顔は――とても優しかった。

「だから、もう謝るな」
「っ…は、はい…」

じっと真面目な顔をして告げる司に、菫の鼓動は速くなり視線を逸らした。
視線を戻した拍子に、ずれた袖の隙間から痣が覗いた。

「菫」

名を呼ばれ、恐る恐る視線を戻す。
司は菫の手首をそっと取り、袖を少し捲った。

「これ、どうしたんだ」
「え…っ!」

白い肌には、赤黒い痣が痛々しいほど浮かんでいた。
司の表情が険しくなる。
菫は慌てて彼の手から逃れ、袖をぎゅっと引き下ろした。
白い肌には、赤黒い痣が痛々しいほど目立ち、司の表情は険しくなった。
痣を見られた菫は、彼の手を振りほどき、袖をぎゅっと引き下ろした。

「あ、えっと…転んでしまって…」

言えるわけがない。
白崎家の当主と娘から暴力を振るわれているなんて。
殴られることよりも、それを知られて嫌われる方が菫にはよっぽど堪えた。

「…転んでできるようなものとは思えないが?」

司はボソリと呟きながらも、手帳を取り出して何かをすらすらと綴った。
すると、光が放たれあの日貰った塗り薬の入った瓶が現れた。

「なくなったらすぐに言え。菫はもう、この家に住む私の婚約者だ」
「は…はい…」

瓶を受け取れば、司は部屋を後にした。

(私…偽物だけど、婚約者、なんだ…)

こうして、偽りの婚約者となった二人の同居生活が始まった。