文豪軍神と偽りの婚約者 ~鬼の血を継ぐ忌み娘は、虐げられた先に生涯の伴侶と出会う~


かけつけた隊士達が公園から去ると、司と二人きりになった。
司は手帳を取り出して、すらすらと何かを書く。
すると、光が放出され軍服を着た隊士が現れた。
どこか、司に似ている端麗な男性。

(人…この異能は、人まで出てくるというの…?)

手帳に何かを書いて、それが出てくるという摩訶不思議な構造に菫は目を丸くした。

「書見処まで行って、菫の身柄を軍が預かるということを伝えてきてくれ」
「かしこまりました」

指示を受けると、男性は公園から出て行った。

「さて、菫。先ほどの隊士に伝えた通り、キミの身柄は特殊調査隊で預かる」
「特殊調査隊…ですか?」

国防軍の内情なんて、まったく知らない。
聞きなれない言葉に小首を傾げた。

「あぁ。詳しいことは…そうだな。国防軍本部で話そう」
「えっ…!? 国防軍本部、ですか…!?」

菫の目がまん丸になる。
それもそのはず、国防軍本部は軍人でないと入ることができない。
一般人の立ち入りは原則禁止され、許可なく入れるのは帝をはじめとする限られた者のみ。
ほかは軍の許可を受けた関係者か、拘束された異能犯罪者だけ。

「案ずるな。私の許可があれば、事前の申請は必要ない」

心配そうにしている菫にそう伝えれば、公園の外に出てまた手帳にすらすらと書き始めた。
そして、光ると――公園の前には立派な馬車が現れた。

「これで参ろう、軍本部はここから少し遠い…どうした?」

先に馬車へ乗り込み、菫の方を見るが不安そうに胸の前で手を組んでいる。
そんな様子に思わず尋ねると、菫は恥ずかしそうに俯いた。

「その…私…」

馬車というのは、馬車は、高貴な身分の者でも気軽に乗れるものではない。
菫は当然、馬車に乗ったことがなかった。
白崎家にも馬車はあったが、菫が乗せてもらったことは一度もない。
また、馬車へ乗るための段差も高く足元がはだけてしまいそうで恥ずかしかった。
それを異性である司に伝えることができず、もじもじとしていると司が「…あぁ」と声を漏らして察したようだ。
菫に手を差し出した。

「引っ張り上げる。掴まれ」
「え、でも…私…」
「キミ一人くらい、どうってことない」

そう言われると、菫は控えめに司の手を握った。
そして、言葉通り簡単に菫を馬車へ入れる。

「わっ…」

宙に浮いた感覚に驚き、目を丸くした。
その勢いのまま、菫は司の腕の中にすっぽりと収まった。

「あ、あの…?」
「――失礼。そちらに座れ」

抱き留められているのは、ほんの数秒だった。
けれど、菫にとってこの時間は――まるで時が止まったかと錯覚するほどゆっくりと進んだ。
男性の腕の中にいることなんて、まるで恋愛小説で幸せになる主人公のようだ。
しかし、菫が声をかけると司がハッとして、そっと腕を離した。
向かい側にある座席を指した。

「わっ…ふかふか…」

初めて座る洋風の座席。
控えめにちょこんと腰を下ろすと、思った以上に深く沈み初めての感覚にパチパチと瞬きを繰り返し思わず口にした。
すると、司が「ふっ…」と軽く笑みを浮かべ、馬車がゆっくりと進み始めた。

「も、申し訳ありません…」
「いや。謝る必要などない。キミは、私では予想のつかない反応ばかりをする。実に興味深い」

窓の縁で頬杖をつけば、くすりとまた小さく笑った。

(変わっている…ということ、かな…? あっ、それより…)

司の言葉に小首を傾げたが、すぐに口を開いた。

「あの、先程はありがとうございました。その…私、重たかったんじゃ…?」
「いや、そんなことはない。むしろ、もう少し飯をきちんと食べた方が良い」

そんなことを言われるのは初めてだった。
白崎家にいた時、三日に一度は罰と称してご飯を食べられない時があった。
ご飯を食べられたとしても、麦飯と汁物。
たまに、残り物の漬物を食べられる程度だ。

「それと、少し話は聞いておきたい」
「話、ですか?」
「あぁ。辛いことを思い出させてしまうが、キミの血の出どころは調べておかないといけない。キミの両親はどちらか、もしくは両親とも鬼の血を持っていなかったのか?」

つい先程鬼の血の存在を知った菫に、心当たりはなかった。
しかし、母に関しては覚えていることがある。

「あの…確実なことではない、のです…けど」
「あぁ。どんなことでも情報があれば、少しは調査が進めやすい」
「鬼の血、かは分かりません。しかし――お母様が、墨に血を混ぜているのは…見たことがあります」

鬼の血という存在がどういうものか、未だに分からない。
けれど、血で思いつくことを伝えれば意外にも司の反応は薄かった。

「そうか。それは、鬼の血ではなく恐らく――血を媒介にする異能か。キミのお母様も、私と同じく血を媒介にする異能持ちだったのだろう」

鬼の血は、何かを媒介にするということはない。
血自体に効力があるからだ。

「同じ…ですか?」
「ああ。ただ、詳細は色々だ。幻術、呪術、契約…種類は多い。私の異能も、これに自分の血を混ぜて精度を上げている」

手帳にさしてある万年筆を取り出した。

「で、でも…お母様は異能なんて…」

使っているところを見たことがない。
母は朝から晩まで安い日銭でこき使われていた。
もし、異能を持っているのなら――それを使って働いた方が効率的なのは、異能至上主義の現実を目の当たりにしている菫だから知っている。

「たしかに不自然だ。白崎家にいながら、異能を使わないのは…」
「あっ…いえ。私が白崎家にいるのは、十歳からです。それまでは、帝都の郊外にある借家で暮らしていました」
「…なるほど。そういうことか」

菫の話を聞いて、司は納得したように呟いた。

「異能者は、人の多い都市中心部に住むことが多い。異能者が多いというのもあるが、郊外だと軍の目が届きにくい。そして、郊外に異能者がいれば、その力は狙われてしまう。異能を持たない人々にとって、異能は――金儲けの良い道具だ」

穏やかではない話に、背筋がゾッとした。

「キミを守るために、お母様は厳しい選択をされたのだろう」
「私の…ため?」

不思議そうに首を傾げる菫に、司はこくりと頷いた。

「鬼の血は、ほぼ確実に受け継がれるけれど、異能者の子どもに異能が受け継がれる確証はない。だから――余計な争いに巻き込みたくなかったのだろう」

そして、異能と鬼の血は共存しない。
ならば、血を媒介に異能を使っていた母が鬼血持ちだった可能性は低い。
つまり、菫の鬼の血は――父から受け継いだもの。

「…となれば、調べるべきは父親だな」
「お父様を…?」
「ああ。キミのお母様ではなく、お父様が鬼血持ちだった可能性が高い」

顎に手を添えて難しそうな表情をする司。

「そう、ですか…父は今…どこで何をしているのか。生死も…分からないのです」
「…それは厄介だ。しかし、キミが気負うことではない」

司は一度も菫を責めなかった。
この会話に、菫はどこかもどかしさがあった。

「あ、あのっ…それ、と…」

一度話が終わると、車窓の外に目を向けた司に、言いにくそうに口を開く菫。

「どうした?」
「さ、先程の…その、婚約者…って…」
「あぁ。キミの血はまだ調べていないから確証は持てないが…かなり希少な鬼血の可能性がある」

司がそう言うと、血が滴り落ちた笠高の著書を見せた。

「血が触れて舞い上がった炎が桃色だった。そのような色をみるのは初めてだ。しかも、あれほど轟々と燃えていたが…痕は何もない。この血を調査に回すが構わないか?」
「そ、それは…はい…っ、申し訳ありませんっ…その本、持っている方が少ない貴重なものだというのに、汚してしまって…!」

菫が深々と頭を下げれば、不思議そうにする司。
しかし、すぐ思い出したようで少し目を見開いた。

「え? …あぁ、そういう話だったか。構わない。家に帰ればいくらでもある」
「…へ?」

司の意外な答えに素っ頓狂な声が出た。

「あっ…その、それで、ですね…」
「今度はどうした?」
「その…先程おっしゃっていた…婚約者、って…?」

本当に聞きたかったことのはずなのに、自信のなさから、語尾になるにつれて声は小さくなった。

「あぁ、それについては深く考える必要はない」
「えっ…!?」
「キミを、妻として私のそばに置きたい」

突然の告白に目を丸くし、頬に熱が集まるのを感じた。

(嘘…っ!? 高槻様が、そんなことをおっしゃるなんて…まるで、夢ーーのよう)

しかし、浮かれそうになったのはこの一瞬だけだった。

「キミの鬼血は非常に稀だからな。いつ、どのように変化するか分からない。他の者が監視につくより、私がついていた方が良いだろう」

司の言葉に、舞い上がった自分が恥ずかしくなった。

(そう…よね。高槻様のように素敵なお方が、私なんかを…図々しいことを考えてしまったわ)

伏目がちになり、きゅっと着物を握った。

「着いたぞ。ここがーー国防軍本部だ」
「わ、ぁ…!」

馬車がゆっくりと速度を落とす。
停まって車窓越しに外を見ると、洋風な作りの建物に目を丸くした。

(さすがは国防軍本部ーーとても、私が足を踏み入れて良いような場所ではなさそう…)

目の前にそびえる立派な建物に、菫は思わず気後れした。

***

「おい、あれ…」
「えっ…!? 高槻隊長が、女性を連れてる…?」
「犯罪者…ではない、よな…? 拘束とかされてないし…まさかーー」

司の案内で国防軍本部内を歩けば、すれ違う隊士達は目をぎょっとさせ、遠巻きに見ている隊士はヒソヒソと話している。

(ど…どうしよう…私のような者が近くを歩いていたら…ご迷惑、なのでは…)

好奇の目に晒されると、菫は恥ずかしさからぎゅっと着物を握った。
前を歩く司は時折、菫の様子を伺うためにちらりと顔だけ向ける。
その時に菫の異変に気づくと小さく息を吐いた。

「ーーおい、貴様ら」
「っ…」

一瞬、菫に向けられたのかと思いビクッと肩を震わせて視線を上げた。
しかし、彼が見ているのは菫ではない。

「私はお前達の所属も上官の名も全て把握している。ここで私達を詮索する暇があるのなら、仕事と鍛錬内容を改めろと上官達に申し伝えるぞ」

静かな口調ながら、ひしひしと怒気が伝わり、隊士達は一瞬で静まり返った。
そして、いそいそと持ち場に戻り司達の周りは誰もいなくなった。

「普段はもう少し静かなのだがな。女性がいるのが珍しいようだ。許してやってくれ」
「は、はい…?」

こくりと頷きかけたけれど途中でピタリと止まった。

(私ーーというよりも、高槻様が女性を…私なんかを連れているのが珍しいのでは…?)

口には出さないけれど、内心そっと感じた。

「菫。ここへ入るぞ」
「は、はい…総司令官、室…?」

掲げている室名札に書いてある達筆な文字を読めば、小首を傾げながら司を見た。
彼はこくりと頷いて口を開いて小声で話した。

「国防軍の長で、私の直属の上官だ。菫は、私に合わせるだけで良い」
「は…はい…」

司の言葉にこくりと頷いた。
司が総司令官室の扉を三回ノックした。

「高槻司ーー入ります」
「ーーあぁ」

中から返事が聞こえると、ドアを開ける。
中の広さは十二畳ほどあり、異国の造り。
赤い絨毯も、その上にある来客用のテーブルやソファーからは高級感が漂っている。
その奥に、総司令官の机があり、その後ろの壁一面は天井にぴったりとハマる本棚で本がびっしりと詰まっている。

「街で鬼血が出没したと聞いた…そちらが?」

五十代半ばの灰褐色の短髪。
物腰柔らかそうな口調ではあるけれど、重厚な圧を感じる。
鬼血と聞いたが、菫の体の線の細さからどこかの村娘にしか見えず一般人に接するような笑顔を浮かべる。
しかし、その目の奥は冷めきっていてすべてを見透かしていそうな男性。

「はい。名は黒宮 菫と申します。そして彼女は――私の婚約者です」
「…なんだと?」

司の言葉により、総司令官の視線が厳しくなった。

「しかし、高槻。街の警報が鳴ったということは彼女は申請をしていなかった、ということだ。鬼の血を持っていながら、故意に隠していたとなれば――お前も処分の対象だ」
「総司令官。それが、彼女自身鬼の血を受け継いでいるということを知らなかったのです」
「鬼の血を知らない? お前がそんな話を信じたのか?」

総司令官が鋭い目で菫を見た。
その瞳が青くなる。
鬼血を知らないというのは、それほどありえない話なのだ。
総司令官がじっと菫を見ると、目を見開いた。

「――本当、だったのか」

総司令官は、異能によって菫の頭の中を覗くと目を見開いた。

「やはり、そうですよね」
「高槻。俺を試したのか?」
「いえ。総司令官の『精神干渉』で彼女の潔白を証明してもらいたかったのです」

菫の話を疑うわけがなかった。
書見処で関わり合ったあの時間は、ほんの少しだったけれど菫の純真さは関わるごとに伝わってきた。

「ほう…それで、彼女を“婚約者”としたわけか」

総司令官が司の目論見を、異能を使ったことで読み取った。
鬼の血を受け継ぐ者は、軍の監視下に置かれる。
異能と同等かそれ以上の力を持つ者達は常に“制御”を強いられる。
自由に行動できず、特別な許可がなければ力を使えない。
けれど、鬼の仲間と思われて差別は止まらない。
軍の中は、鬼の血に関して寛容な方ではあるがそれでも、不便さは拭えない。

「鬼の血の調査は、特殊調査隊の職務内容。本来なら、軍での生活を余儀なくされるが婚約者であれば、自分が四六時中監視できるから、と?」
「…おっしゃる通りです」
「そうか…俺から一つ出す条件も飲めるのであれば、許可しよう」
「条件、ですか?」

司がそう尋ねると、総司令官はこくりと頷いた。

高園 治(たかぞの おさむ)を特殊調査隊の臨時隊士としてお前の下に置くのなら、お前が彼女を専属で監視するのを許可するという条件だ」
「高園を…ですか?」

総司令官の申し出に、司は一瞬戸惑った。

「あぁ、我が軍の数少ない鬼の血を継ぐ隊士。彼女の鬼の血の詳細を知らないというのなら、高園を近くに置くのは賢明だ。それに、彼女も同じ鬼の血を継ぐ者がいれば、相談とかもしやすいだろう」

その理由を説明するように総司令官が続けると司は重々しそうにしながらも口を開いた。

「…かしこまりました」
「――お前、まさかその娘に…」

総司令官がじっと司を見て、少し目を見開いてから何かを言いかけた時。

「総司令官の許可は頂けましたので、彼女に本部の案内をしてきます」

言葉を遮るように、司が言えば総司令官室を後にした。

「――では、菫。次は、特殊調査隊の職務室へ行くぞ」
「は、はい…」

総司令官室を出ると、先を歩きだす司。
その後ろを歩きながら、司の背中を見てぼんやりと菫は考えた。

(高園さん、という方が下につくという話を聞いた時…高槻様、固まってた…? もしかして、苦手、とか…だとしたら、私のせいで――)

自分のせいで、彼に負担をかけているのではないかと自責の念にとらわれた。
ぼんやりと歩いていると、突然視界が真っ暗になった。

「わっ…」

立ち止まった司にぶつかり、尻もちをつきそうになる。

「菫」

咄嗟に司が菫の手を取り、そっと支える。

「大丈夫か?」

声をかけて菫の体勢を整えると、手を離した。

「は、はい…も、申し訳ありません…少し、ぼーっとしてしまって」
「総司令官への挨拶が終わって、肩の荷が下りたのだろう。しかし、ここは男所帯だ。気を抜くのは感心しない」
「も、申し訳――」
「謝る必要はない。次から気を付けてくれ」

菫に軽く伝えると、『特殊調査隊』の室札が掲げられた部屋のドアを開けた。

(この中には、高槻様と共に仕事をされている方が…失礼のないようにしないと…!)

心の中でそっと意気込むと、ごくりと生唾を飲み込み、じっと前を見つめた。

「…あれ」

中に入ると、十畳ほどの広さのある部屋。
同僚がいると思っていたが、誰もいない。
それどころか、デスクが一つあり、他は来客用のソファーとテーブルがあるだけ。
そして、壁一面には天井の高さまである本棚に、本がびっしりと詰まっている。

「どうした?」

声を上げた菫に、司が尋ねると目をまん丸にした。

「あ、あの…高槻様とご一緒に働いている方にご挨拶をしようと思っていたもの、ですから…」
「あぁ。それなら気にすることはない。特殊調査隊という名はあるが、この部隊には私しかいない」

司はそう伝えると、菫にソファーへ座るよう促した。

「し…失礼します」
「私しかいないから気を張る必要はない、と言いたかったのだが――」

司の言葉を遮るように、扉の外から三回ノックする音が聞こえた。

「――高園治、入ります!」

外からは、明るく若い印象のある青年の声が聞こえた。

「…あぁ」

司が返事をすると、勢いよく開いた。

「わぁ…! ここが特殊調査隊の職務室ですか!」

中へ入って来たのは、短髪で軍服を少し気崩した青年。
ドアを開けた時は凛々しい表情をしていたが――すぐに、その表情は崩れた。
初めて見る特殊調査隊の部屋の様子に、パァッと表情を明るくさせた。

「…喧しいのが来た」
「えー! ひどいじゃないですか! この秘密の多い特殊調査隊の内情を知れる機会、今を逃したらないでしょう!」

ため息を吐きながらボソリと呟いた司に、すぐに反応する治。
初めて見る室内をキョロキョロと見渡す。
底なしに明るい彼に、菫が呆然と治を見ているとその視線に気づき目を合わせる治。

「あーっ! 鬼血の!?」

総司令官から菫のことを聞いており、ハッとして大きな声で反応する。

「っ…!」

突然の大声に、ビクッと体が震える。

「高園。次、そのようなことをしたら――」

司が手帳を開き、万年筆を動かそうとした瞬間。
治が慌てて身振り手振りを大げさにした。

「わーっ! ちょ…ちょっと待ってください…! 俺、嬉しくて! 同じ鬼血がいるってことが!」
「…ふん」

反省した様子の治を見て、手帳と万年筆を戻す司。
改めて、菫に向き直る治。

「お嬢さん。俺、高園治っていいます! 治って呼んでください!」
「わ…私は、黒宮菫と申します。お…治様」

男性を名前で呼ぶのは初めてで、恥じらい頬を赤らめる菫。

「菫ちゃんかー! よろしく!」
「おい。馴れ馴れしいぞ」

治は何のためらいもなく、菫と話すけれど司の目は鋭くなった。

「高園。お前はまだ、別部隊だろ。挨拶を済ませたらさっさと持ち場へ戻れ」
「そうでした。正式な配属は明日からと伺ってます。では、失礼いたします。じゃあね、菫ちゃん」

司にはきちんと敬礼をするが、菫には友人のようにヒラヒラと手を振る治。
治にぺこりと会釈をすれば、司が重々しく口を開いた。

「――おい」

まるで、『早く出ていけ』と言わんばかりの声音に治は苦笑いしながらそそくさと部屋を出た。

「まったく…菫、あぁいうのは適度に流せば良い」
「わ…分かりました」

司とは正反対の雰囲気を持つ治。
戸惑いながらも、彼に対して悪い印象はなくホッと胸を撫でおろした。

「それと、先ほどの話の続きだ。私の出勤の日は、ここで過ごしてもらう」
「あ、あの…私、お邪魔になるのでは…?」

ここは、特殊調査隊の職務室。
仕事をする場だというのに、部外者がいるのは目障りになるのではないかと不安になった。

「問題ない。この部屋の中なら、好きに過ごしてもらって構わない。例えば――」

司が本棚の方に向かって歩くと、一冊の本を取り出した。

「コレを読む、とか」
「っ、それ…!」

司が手にしているのは、笠高月津の著書。
先程、残り数頁を残して読めなかった本だ。

「血が付いた方は、調査に回す。しかし、あの本はここにも、家にもある。だから、急いで読む必要はない。他にも、この棚には同じ作者の本を置いている」
「えっ…わぁ、こんなに…!」

司の言葉に、天井まで届く高さから床までずらりと眺めた。
司の言うように、この本棚には笠高月津の作品ばかり並んでいる。

「えぇっ…! 私、こんなに出版されているなんて存じ上げなかったです…! 笠高先生が初めて世に作品を出されたのは、五年前では…?」
「そうだな。各書店に流通するようになったのは、五年前だ。しかし、それまでも執筆をしている」
「なるほど…高槻様は随分とお詳しいですね。まるで――」

司をじっと見つめる菫。
司は、菫の次の言葉をじっと待ち構えた。

「生涯、寄り添っているみたい。笠高先生も、高槻様のように作品を愛してくれる読者がいて、さぞ嬉しいでしょうね」
「…そうだな」

予想と反した答えに、一瞬戸惑う司。

「それと、菫。改めて言っておくが、私達は婚約者として軍では通す」
「は…はい。承知しております…」

まさか、自分が誰かと夫婦になるような関係を演じることになるとは、昨日まで考えられなかった。
改めて伝えられると、その言葉が照れくさくて唇をきゅっと噛みしめる菫。

「どこから情報が洩れるか分からない。普段から、婚約者として疑われない態度で接しておくべきだと思うんだ」
「た…たしかに。おっしゃる通りだと思います、高槻様」
「――それ、だ」

司の言葉にこくりと頷いた菫だったが、指摘が入る。

「はい…?」

何がおかしいのだろう、と小首を傾げる。

「婚約者という間柄で、苗字で呼ぶなんておかしいと思われる」
「えっ…で、でも…」

司は、菫にとっては雲の上にいるような人。
その人の苗字を呼ぶことですらおこがましいと思っていた。

「名で呼べ。司――良いな?」
「つ…つ、つ…っ」

名を呼ぼうとするけれど、言葉に詰まってしまう。
そんな様子の菫を見て、司はピクリと眉を動かした。

「私の名は、それほど呼びにくいか? 少なくとも“治”という名よりは、呼びやすい気がするのだが」
「えっ…い、いや…あの…」

司の言葉に首を横に振る。
呼びにくいわけではない、ただ――。

(ど、どうして、だろう…先ほど、治様と呼んだ時はこんなことなかったのに…高槻様だと、何だか――)

鼓動が速くなり、上手く口が回らない。
自分でも分からない感情に押しつぶされそうになっていた。

「…明日からは高園もここへ来る。不自然にならないように呼べるようになれば良い」
「は…はい。分かりました」

こくりと頷きながらも、菫の鼓動は、ますます速くなっていった。

「主に過ごすのはここで、場所の案内もできた。そろそろ、家に戻る」
「は、はい。分かりました」

こくりと頷き、菫はどうしようかと不安そうに胸の前で手を組んだ。
しかし、そのような行動をする菫に、司は小首を傾げた。

「? 何をしている」
「えっ…? 高――いや、つ…司、様が戻られるなら、私って…」

どうしたら良いのか分からなかった。

「婚約者として通すのだから、同じ家に帰るに決まっているだろう?」
「えっ…!?」

司の言葉に目を丸くした。
こうして菫は、出会って間もない“偽りの婚約者”――司と、同じ屋根の下で暮らすことになったのだった。