桜舞い散る季節。
辺りには桃色の花びらが風に舞い、季節は若々しい新緑へと移り変わろうとしていた。
心が洗われるような気持ちの良い季節。
しかし、その景色を楽しむ暇もなく、パチンーー肌の乾いた音が響く。
ここ、読書喫茶『書見処』の裏方は、お客様に出す軽食と店頭に並べる本が置いてある。
普段は、軽食を準備する音や本を表に出すための足音しか聞こえない。
けれど、ほぼ毎日一定の時間にだけ違う音が聞こえる。
それは、読書喫茶を開業した白崎家の当主の娘、紅葉が、奉公人同然に扱われる菫に怒りをぶつける。
菫は、前当主の孫で紅葉と同じ立場である。
違うことは、菫は前当主の第一子の娘でーー手塩にかけたがかけおちをした末に生まれた子ということだ。
「ちょっと! アンタ! 今、アタシのことを睨んだでしょう!」
腕を振り抜いた後に、紅葉が金切り声で怒鳴りつける。
しかし、菫には全く覚えがなく平手打ちをされて廊下に横たわり、赤くなった頬をぼんやりと手で押さえる。
そして、遅れてようやく紅葉が何に対して怒っているのかを理解する。
慌てて三つ指をつき額を床につく数センチの所まで頭を下げた。
「ーーいえ。そのようなつもりは…申し訳ございません」
否定しようとしたけれど、ハッとして口をつむぐ。
すぐに謝罪をしたが、時すでに遅かった。
「ちょっと! 誰が口答えをして良いと言ったの!?」
紅葉が手にしていた扇子を振りかぶり、菫の後頭部めがけて勢いよく投げた。
(痛い…痛い、けれど――)
後頭部に硬いものが当たり、鈍い痛みが走る。
それでも菫は声を上げなかった。
菫が白崎家へやって来て八年。
ほぼ毎日、虐げられておりこの生活にも慣れてしまった。
床に落ちた扇子を拾い上げ、両手で紅葉へ差し出す。
「汚いわね! 触らないで!」
菫から扇子をバッと奪い取るように握る。
「誰が頭を上げていいと言ったの!?」
紅葉が声を荒げ、平手打ちした方と反対側の頬を扇子で引っぱたいた。
「っ…」
息を漏らし、菫の華奢な体が横に倒れる。
体を震わせて横たわる姿を見ると、弱った虫のように見えて紅葉の目には無様に映った。
「ふん!」
満足すると、顔を逸らして立ち去る。
菫が細い腕で体を起こし、ゆっくりと立ち上がる。
(また…怒らせてしまったわ。私が悪いというのに――)
目が合い、睨まれたという理由だけで殴られても菫は自分を責めてしまう。
それには、彼女の生い立ちが関係していた。
菫が白崎家にやって来たのは、十歳の頃。
その年、菫は大好きな母を亡くした。
原因は、菫を育てるために寝る間を惜しんで昼夜問わず、体にムチを打って仕事をした過労によるもの。
父は菫が生まれる前に亡くなったと母から聞いていたけれど、それは母が吐いた嘘ということを菫は幼いながらにも知っていた。
それは、菫が物心がついた頃、近所の井戸端会議をたまたま聞いてしまったからだ。
『菫ちゃん、ちゃんと育ってるわね』
『本当よね、子どもが生まれる前に男に逃げられたっていうのに…』
『駆け落ちらしいわよ? 奥さん、名家のご出身ですって』
『えぇっ!? 名家から出て今、この生活? 私なら耐えられないわ~』
『本当、大変そう~』
菫は幼いながらにも、大人たちの会話に気持ち悪さを感じていた。
口では可哀想と言いながらも、その顔はまるで『楽しい話』をしているようだったからだ。
けれど、母は決して父のことを悪く言わず、菫に辛い思いをさせないようにと仕事をしていた。
そしてとうとう、母の体は限界を迎えてしまった。
菫は大好きな母を失ったことで、絶望の淵に立たされていた。
菫には母以外の親族がいないと、近所の人や菫自身も思っていた。
しかし、葬式の話や菫の引き取りの話をしている時――白崎家の当主が菫を引き取りに来た。
周りは、ホッとしていた。
菫達が暮らしていた近所には、自分達の生活で精一杯な者達ばかりで、子ども一人を養う余裕などなかったからだ。
しかも、白崎家の当主は菫の母の父ということで、身内に引き取られることをみんな両手放しで喜んだ。
ところが、菫を迎えに来た車の中で、すでに地獄が始まったのだと理解できてしまった。
「お前か…儂の娘をたぶらかし、逃げ出した男との間にできた――疫病神というのは」
当主の目は、氷のように冷たかった。
孫に向ける視線とは思えないものだった。
そして、当主に連れられて白崎家の屋敷に入ると、中には次期当主夫妻とその娘である紅葉がいた。
次期当主夫妻も、当主のように物凄い剣幕で睨みつけた。
そんな両親の表情を見ていたからこそ、幼い紅葉もまた、菫は蔑んでよい存在なのだと覚えていった。
「ちょっと。あなたからもお父様に何とか言ってちょうだい。あの子、お姉様に変わって私の立場を狙っているに違いないわ…!」
当主と同様に菫を疎ましく思っていたのが、次期当主である母の妹。
稀な異能を持っている母と昔から比べられ、劣等感があった。
そんな母が、どこの家の出か分からない男と駆け落ちをしたことで次期当主の座が確約された。
しかし、家督を受け継ぐまであと数年となったところで姉の娘が家に来たとなれば、心穏やかにはいられなかった。
そして、それを婿養子である夫に相談したけれど、彼の返事はどっちつかずなものだった。
「そ、そんな…まだ、あんな子どもじゃないか」
「甘いことを言って…! 私が嫁に出ず、アンタなんかと結婚したのはすべて家督を継ぐためなの! 分かってるの!?」
「そ、それは…そんなに怒らないでくれよ」
彼の性格が穏やかだけれど、欠点はその優しすぎるゆえ、臆病ということだ。
揉め事を起こさないようにと、妻を慰めるが、次期当主はそのようなことを望んでいない。
むしろ、自分と同じ力量で怒らない夫にも怒りが膨らみ、次期当主夫妻の仲は次第に悪くなった。
そして、それは――娘の紅葉にも伝わった。
紅葉にとって、菫は虐げても良い存在――そして、両親を不仲にさせて幸せな家庭を壊そうとする疫病神。
だから、何をしても良いと認識が変わっていった。
ただ、当主や次期当主夫妻がどれほど菫を追い出したいと思っても、それができない理由があった。
それは、菫の母が自分の命に先がないと悟った時――当主に自分の血と墨を混ぜた“呪術の文”をしたためたからだ。
菫の母の異能とは、血で呪術が使えるという稀なもの。
母が当主へ向けた文というのが『私が亡くなったら、菫を引き取ってください。そして、あの子の命を奪うこと、また故意に白崎家の庇護から追いやることがあれば――この血をもって、白崎家の血筋を絶やします』というもの。
決して穏やかではない内容であり、当主自身娘の呪術の力を知っているため菫を追い出したくてもできなかったのだ。
けれど、大切に育てる義理もない。
そして、文の内容は嫌悪感を露骨に出している次期当主にも伝わった。
その文の内容を知った途端、次期当主はニヤリと口角を上げた。
「お姉様も詰めが甘いわ。生かしてこの家に置いておけばいいのでしょう?」
文を逆手に取り、菫が命を落とさない範囲で苦痛を与えるようになった。
そのため、菫の体には常に痣や腫れが絶えなかった。
こうして菫への虐げは白崎家の日常となり、年を重ねるごとにその卑劣さを増していった。
***
紅葉からぶたれた頬の痛みが引くと、仕事の続きを再開する。
白崎家は元々、小豆をふんだんに使った菓子作りをメインで行っていた。
その功績はすさまじく、帝の住む宮廷に献上するほどであった。
しかし、売り上げの低迷を問題視した次期当主は、帝への献上菓子を作り続ける一方、新たな事業へ乗り出した。
そこで開いたのが、読書喫茶。
茶を嗜みながら本を読むなんて、と当初は反対の声が多かった。
しかし、内容は異国の洋を取り入れたもので、従業員の着ている服も世間が一般として着用する着物ではなくフリルの付いたハイカラなワンピース。
提供する軽食は、紅茶と洋菓子。
芳しい香りの紅茶と、濃厚な甘い洋菓子を嗜みながら、雑誌を読んだり、会話を楽しむ場として若い女性を中心に徐々に人気を博していった。
そして今では、娯楽のひと時を楽しめる憩いの場として老若男女問わず人気となった。
菫の仕事は、読書喫茶の書物に関することのほぼ全般。
仕入れだけは店の売り上げに関わるため任されていないが、書物を棚へ並べたり、倉庫を整理したりと、力仕事はすべて菫が担っていた。
書物は、純文学から若者に人気のある雑誌まで種類は様々。
そのため、一日の作業量はとても多い。
同じ年頃の娘と比較してもほっそりとした体型の菫にとって、重労働だった。
「ちょっと愚図! 在庫がたまってるじゃない!」
倉庫で菫が作業をしていると、金切り声で怒鳴りつけるのは――五年前に家督を引き継いだ次期当主。
「も…申し訳ありません…」
菫はすぐに謝るけれど、たどたどしい話し方が気に入らずズカズカと詰め寄った。
「アンタがさっさとしなければ、せっかくの機会を逃すかもしれ――っ!」
当主が近づいてくる途中で、近くにあった書物がたくさん入った木箱に当主の足が当たった。
その痛みに顔を歪める当主。
「だ…大丈夫ですか…?」
心配になり、当主にそう声をかけるけれど顔を上げた彼女は鋭く菫を睨みつけて近くにあった本を床に叩きつけた。
「っ――!」
菫は、恐れている当主相手であってもその行動を見逃すことができなかった。
さっとすぐに本を拾い上げてぎゅっと胸の前で抱きしめた。
「そもそも、在庫管理はアンタの仕事でしょうが! それなのに、こんなに残して!」
「も…申し訳ありませんっ…で、でもっ…この本達は、魅力があるのです…! 必ず、誰かの手に――あっ」
また、やってしまった――そう思った時には、遅かった。
菫は、本のこととなると我を忘れて考えるよりも先に言葉が出てしまう。
「~っ! アンタなんかが当主である私に口答えをしていいと思っているの!? 本当に生意気! こっちへ来なさいッ!」
「っ!」
菫の重い前髪を力任せにぐっと掴めば、そのまま引きずった。
ブチブチと髪の毛が抜ける音がする。
それでも構わず、当主は菫を引きずってとある場所へと向かった。
「い…いた…っ…」
痛みには慣れているけれど、雑に髪を掴まれるのは初めてで痛みのあまり、涙が零れそうになる。
「うるさい! 誰が悪いと思ってるんだい! アンタが生意気に反抗したのが悪いんでしょう!」
当主は、菫を折檻部屋へ連れて行こうとしていた。
折檻部屋は、菫を痛めつけるためだけにできた部屋。
当主が家督を引き継いだ五年前から、菫への当たりは強くなった。
当時、菫はまだ十三歳。
子どもが死なない程度の暴力という苛烈な行動に嫌悪感を示す女中もいた。
そのため、菫を守ろうとする女中の目を背くために、使われていなかった離れを折檻部屋としたのだ。
誰にも、菫を虐げることを邪魔されないように。
部屋の中では、言葉にするのもおぞましいほど卑劣な行為が行われていた。
「――当主様」
しかし、折檻部屋へ行く途中、白崎家へ奉公に来ている女中が声をかけた。
折檻を邪魔されたことに苛立ち、当主は女中をギロリと睨みつけた。
「何? あなたも折檻部屋へ行きたいと言うの?」
「申し訳ありません。ですが、お客様で…棚を作った者を呼んでほしい、と」
「…なんですって?」
菫の髪を掴んでいた手が緩み、菫はそのまま顔から床へ落ちた。
鼻先から広がる鈍い痛みに、顔を歪めた。
「お客様はどのようなご様子?」
「それが…あまり、機嫌はよろしくないように見えます。恐らく――お申し出かと思いますが」
当主の近くにまで寄ると、こそっと伝えた。
しかし、その言葉にニヤリと口角を上げる当主。
「へぇ…菫。いつまで寝ているの」
「うっ…」
顔への痛みに耐えてると、今度は後ろ髪を掴まれ無理矢理顔を上げさせられた。
「アンタの作った棚に、客から苦言が来ているそうだよ」
「えっ…」
当主の言葉に、パッと顔を上げた。
先ほどまで戻りかけていた当主の機嫌は、菫と目が合った途端、再びあからさまに悪くなった。
「ほら、早く行ってきな。その不細工な顔を見たら…ふふっ。余計に文句が増えるんじゃない?」
意地悪くニヤニヤと笑みを浮かべる当主。
これから菫が怒られることを想像して、楽しんでいるのだ。
「…はい」
菫はこくりと頷いた。
当主は満足そうにその背中を眺めていた。
女中は心配そうに菫の背を見送ったものの、これ以上口を挟めば自分まで標的になる。
ちらりとだけ菫を見て、自分の作業へ戻った。
***
店先へ出て、女中から報告を受けた男性を探すと、一目で分かった。
柔らかそうな黒髪を短く整え、透き通るような翡翠色の瞳は、どこか異国の血を思わせた。
すらりと伸びた手足に、深い緑色の着物。
がっちりとした体型。
背も随分と高く、他の男性達よりも頭一つ分ほどある。
(綺麗な人…)
思わず見惚れてしまうほどだった。
けれど、その端正な顔の眉間には深い皺が寄せられている。
菫がじっと見つめていたことで、男性も気付いた。
(あっ…)
慌てて視線を逸らしたが、男性は迷うことなく菫に近付いた。
「ここの奉公人、か?」
そう尋ねたのは、菫だけは他の者と格好が違うからだ。
他の女性の奉公人は、フリルの付いたハイカラなワンピースを着ている。
しかし、菫は何度も繕った古着同然の着物を襷掛けしている。
腰元には汚れないように前掛けをしており、それには『書見処』と小さく刺繍してある。
「は、はい。あのう…本棚に並べたのは…わ、私…です…」
怒られることが分かっているため、申し出る声が震える。
他のことはダメでも、本に関することだけは自信があった。
けれど、それさえまともに出来ず客から申し出を受けるなんてーーと、菫の胸はきゅっと締め付けられた。
「そうか。それならキミに問う」
「っ…は、はい…」
視線を伏し目がちにし、前掛けをぎゅっと掴んだ。
すると、男性は棚の方を指差して口を開いた。
「キミ、これはなんだ」
「えっ…?」
言葉は端的。
けれど、これまで紅葉や当主から受けた冷たいものではない。
その問いに顔を上げれば、男性が尋ねるのは先程までじっと凝視していた棚。
「えっと…本棚、ですか?」
質問の意図が分からず、小首を傾げれば短く息を吐かれた。
「違う。他の棚はきちんと書物を並べてある。種類だけでなく、版元ごとに。しかし、どうして“笠高 月津”の書物だけは、きちんと並べないのかと問うているんだ」
男性がそう尋ねると、菫の頬は赤く染まった。
(嘘…どうして、この方…)
笠高 月津とは、年齢、性別、出身などが一切不詳の大衆小説の第一線を走る文豪。
恋愛小説を書けば、読み手がすぐに感情移入できる繊細な心理描写とロマンティックな情景描写で世の女性の心を掴んで離さない。
推理小説を書けば、巧妙な手がかりと読み手も主人公と共に考える冒険要素も含まれた大胆な描写。
他にも様々な種類の本を出し、どこでも第一線を駆け抜ける唯一無二の文豪。
そして、菫の大好きな作家。
本に優劣はないけれど、笠高の作品だけは、どうしても特別な感情を抱いてしまう。
そんな私情から、笠高の棚だけはこだわり抜いた本棚を作った。
けれど、この男性に指摘されるまでーー誰にも触れられたことがないのだ。
「あ、あの…笠高先生の作品は、恋愛小説でも推理小説でも…根にあるものは同じだと思うんです。人が何を想い、なぜその選択をするのか――そこを描いている方だから。たしかに、お客様がおっしゃる通り版元ごとでも、種類ごとでもございません…けれど、笠高先生の世界は、種類が異なろうと、全てが繋がっているので、この通りに読んで頂きたいな、と…思いまして…」
本のことになると、すらすらと言葉が出て饒舌になる。
棚の左側からずらりと指差しで棚をなぞり、愛おしいものを見つめるような優しい目をする菫。
しかし、言い終えるとハッとした。
(しまった…! また、やってしまったわ…!)
慌てて口元を押さえる。
「お客様のお言葉に、言い返すようなことを申してしまって…」
慌てて深く頭を下げたが、彼はぼそりと呟いた。
「…そこまで読んだのか」
「えっ…?」
しかし、その声は菫には届かず小首を傾げた。
彼の眉間に寄った皺はなくなり、目を丸くして不思議そうに菫を見つめていた。
「いや。なんでもない…キミ、名を聞いても?」
「は、はい…黒宮 菫と申します」
「菫、かーー良い名だな」
目を細め、柔らかな表情を浮かべる彼。
名を褒められたのなんて、初めてのことで顔に熱が集まる。
(笑ったお顔も…とても綺麗)
彼の表情に、思わずうっとりした。
***
それからというもの、菫には一つ楽しみが増えた。
「こんにちは、菫」
「あっ…お、お客様…こんにちは…」
あの日の男性が、週に一、二度書見処へ足を運ぶようになったのだ。
本のこととなると話が止まらない菫だが、それ以外の話題では、未だこの男性を前にすると緊張してしまう。
「これは…随分と古い物を置いているな」
棚にある笠高の書籍を一冊取り出す男性。
彼が手に取ったのは、五年前に出版された笠高の処女作。
「それは…笠高先生が初めて世に出した作品で、荒々しい描写もあるのですけれど、一番感情的、と言いますか…笠高先生を感じられる気がして。大好きなんです」
「そう、か。そこまで好いてもらえているとは、著者も思っていないだろう」
「そ…そう、ですよね。私なんかが、偉そうに言うだなんて…笠高先生も、思っていらっしゃいません」
つい話しすぎてしまったことと、これまでに蓄積された自分の価値の低さに伏目になる菫。
すると、男性は「こほん」と咳払いをした。
「キミは本当に自分を卑下する。これほど本の知識があり、忙しいながらにも新しい書物があればそれも読む。棚へのこだわりも強い。私からすれば、どうしてそこまで自分を誇りに思わないか分からない」
翡翠色の瞳が、菫をじっと捉えて離さない。
その瞳に吸い込まれてしまいそうだった。
「それとーーまた、増えたのではないか?」
「っ…」
彼がじっと菫の顔を見ると、彼女の頬が赤く腫れている。
額には赤紫色の内出血の痕も見える。
とても、年頃の娘とは思えない痛々しい傷を指摘しないわけにはいかなかった。
「わ…私、その…鈍臭い、ですから。それで…」
彼に、当主や娘から暴力を振るわれているなんて口が裂けても言えなかった。
もし、それを知られてしまえばーー出来損ないで嫌われ者だと伝わり、彼からも冷遇されてしまうのではないかと思っている。
彼のことはまだ、名前も知らないけれどたくさんある本の知識から博識ということは分かる。
そして、ここへ来る時に着ている着物は、上質で菫の給料では一年働いても買えないような代物。
さらに、誰もが振り返るような美貌ーーこれらから、きっと彼は高貴な人と分かった。
身分も家柄も、きっと自分とは比べものにならないほど立派な方なのだろう。
(そんな方とお話ができるなんて、私なんかが厚かましいのは重々に承知をしている。けれどーー)
これほど、本のことで話が合う人はいなかった。
だから、彼という話し相手を手放したくなかった。
そんな浅ましい気持ちから、彼に隠していた。
「…そうか。なら、これを」
「えっ…? なん、で…す、か…っ!」
菫が何かを隠しているのを悟れば、彼はそれ以上言及することはなく懐から手帳を取り出した。
そして、すらすらと万年筆で何かを書く。
きょとんと小首を傾げていると書き終えた瞬間、手帳から眩い光が放出した。
そして、手帳から手のひらサイズの小瓶が出てきた。
中にはクリーム状の何かが入っている。
彼の異能の特異さよりも、彼がここで異能を使ったことに菫は目を丸くした。
「これは万能薬だ。塗れば翌日には傷も良くなる」
それを菫に渡そうとするが、ぶんぶんと勢いよく首を横に振って拒否をする。
「っ、お…お客様っ。このような場所で、い…異能、だなんてっ…」
菫は慌てて辺りをキョロキョロと見渡し、自身の唇に人差し指を当てて小声で話した。
ここ、帝都では許可なく異能を使う事を禁じられている。
異能を使って良いのは、異能を使った店を営む者。
しかも、使えるのは店の中でだけという規制もある。
自由に異能を使えるのは、国のために働く国防軍に所属する軍人のみ。
けれど、彼はどこをどう見ても軍人だとは思えない。
「…あぁ、そうか」
菫の反応に最初は首を傾げていた彼だったが、一人で納得すると小さく頷いた。
「それならこれは、私とキミの秘密だ」
「えっ…ひ、秘密、ですか…?」
「そうだ。他言すれば、私は捕まってしまう。だから、内緒…という取引はどうだろう?」
今度は、男性が小声で話して唇に人差し指を当てる。
菫はこくこくと何度も頷いた。
「かしこまりました…! 口が裂けても、絶対に言いません…!」
「ふっ。良い返事だ。秘密を守ってもらう礼として、これを受け取ってくれないか?」
男性がそう言うと、今度は懐から冊子を出した。
受け取ると、その本に目を丸くした。
「っ…! こ、これっ…笠高先生の…! え、えぇっ…! 初めて見ます…!」
「あぁ。それは、持っている者が限られる特別仕様。読んで、感想を教えてくれ」
「い、いいんですか…! わ、嬉しい…すぐに読んで、必ずーー」
菫が表情を柔らかくして伝えると、背後から「菫」と声をかけられ言葉を止めた。
「お話中、申し訳ありませんーー当主様から、在庫を表に出せ、と」
男性に頭を下げて菫にそっと耳打ちをする女中。
楽しい時間も一瞬で底に落ち、表情が強張る。
その一瞬の変化に、男性は目を鋭くさせた。
女中はそれだけ伝えると、自分の作業に戻った。
「っ…かしこまりましたーーお客様、申し訳ありません。私、ここを少し離れないといけなくて…」
「いや、こちらこそすまない。引き止めてしまって。あの、キミーー菫は、次…いつが休みだ?」
「えっ…休み、ですか?」
男性に限らず、誰かに休みを問われるのは初めてのことで小首を傾げた。
しかし、男性に的確な答えを伝えることはできない。
菫は、店に出ない日は家で女中と同じように働いているからだ。
他の女中は、店に出る日、家のことをする日、そして休みという日程だが、菫は違う。
「それは…その…」
言葉を失ってしまう。
「ーー失礼。つい距離を間違えてしまったな。キミからすれば、私のような妙な男にそのようなことを尋ねられても困るだけだな」
こほん、と咳払いをして視線を逸らしながら言う男性。
「ち…違いますっ。あの…休み、ではないのですけれど…明後日、お昼前でしたら…少しですけれど、外へ出る用事があって…その時は…?」
しかし、菫はすぐに首を横に振って否定した。
そして、代替案を伝えれば細く笑みを浮かべた。
「そうか。では、その日…十一時くらいで都合が良いか?」
「は、はい…問題ございません」
「そうか。では、近くの公園で落ち合おう。その、もし読めるところまであれば…その本も少し感想を聞かせてくれ」
「はい、わかりました」
こくりと頷けば、男性は会釈をして店から立ち去った。
彼と店の外で会える――その約束だけで、明後日までの仕事も乗り越えられそうなほど、菫の心は軽くなった。
(あれ…これって、恋愛小説にあったような…デヱトというものでは…!?)
菫が、初めてのことに心を乱している一方ーー。
「何。あの男…醜女なんかに気をかけて」
「しかも…すごく良い男じゃないか。あんな不細工に…」
「ここ最近、菫は随分と調子に乗っている…少し、灸を据えてやらないとね」
菫の細やかな幸せを許せない者達がいた。
***
そして迎えた明後日。
待ち合わせにした時間は、ちょうど菫が買い出しに出ている時間。
書見処では普段、力仕事を任されているため家のことをする時も自然と重い物を運ぶ役割となっている。
普段と違うのは、男性から貰った本を持っていることと、商品を飾っている店先のガラスのディスプレイの前で何度も身だしなみを整えてしまうことだ。
(少しでも、マシな格好をしなければ…それにしても、頂いた塗り薬…本当にすごい…)
ガラスにうっすら映る自分を鏡代わりにして、髪を整えながら、じっと自分と向き合った。
いつもなら、痣や腫れだらけな上に、重い前髪から覗く『睨んでいる』と誤解される目が大嫌いで鏡を避けてしまう。
目つきや髪型は変わらないけれど、男性から貰った塗り薬のおかげで菫の顔や体からは痣や腫れが一切なくなったのだ。
けれどーーみすぼらしい姿まで変わったわけではない。
そして、公園に到着したのは十時五十分。
まだ、男性は来ていない。
しかし、公園に着くと緊張が止まらなかった。
(わ、私なんかが…男性と、デ…デヱトに行く日が来るなんて…!)
淡い期待を抱き、菫の鼓動は速くなる。
少しでも気を紛らわせようと、近くのベンチに腰掛けて読みかけの本を開いた。
「すまない。待たせたか?」
本を開いてすぐ、頭上から聞こえた声にドクンーーまた、心拍が速くなる。
「い、いえ…私も、先程ーー」
来たばかりと告げる前に、彼の姿に目を丸くした。
胸にあるたくさんの徽章。
腰に携えた刀。
そして、何色にも染まらない全身を包む漆黒の――軍服。
軍人を見るのは初めてだったが、菫はすぐに理解した。
国防軍のーーしかも、かなり役職の高い軍人である、と。
「…驚かせてすまない。キミにいつか、言わなければならない時が来るーーそう、思っていた」
「えっ…あ…その…」
国のために存在する軍人と名家で女中のように扱われている菫が口をきいていいわけがない。
開いたばかりの本を閉じ、胸の前でぎゅっと抱いた。
本の話ができると内心喜んでいたが、これももうできないーーそう思うと、胸がきゅっと締め付けられた。
「申し訳ない。非番だったが、急に本部に呼ばれてしまって、このような格好で来てしまったんだ」
いつも以上によそよそしい菫の態度に、男性は眉を下げながら説明した。
「ぐ…軍人様が、私なんかといるところを見られては…世間様が何とおっしゃるか…!」
「高槻司」
「えっ…?」
彼のためを思い、首を横に振りながら説明すると彼が名乗り出て思わず目を合わせた。
「このような格好だが、私は今日軍人でも客でもなく、高槻司としてここへ来た。軍服を着ていようと、キミと書見処で語らえた時間が覆るわけではないだろう」
「あっ…」
その言葉に、菫はハッとした。
たしかに、彼と話した時間はとても楽しいものだった。
それを、彼が軍服を着ているからという理由で距離を取ろうとするのはまるでーー白崎家の人達とやっていることが変わらない。
彼らは『白崎家にとって邪魔な存在』として、菫をひどく虐げる。
目が合っただけで睨んだと言いがかりをつけたり、少しでも言葉を続ければ生意気と制止する。
(これまでーー散々、辛かったのに…私…)
そう思うと、恐る恐るではあるが口を開いた。
「も…申し訳、ございません。失礼な態度、でした…高槻様」
「高槻様、か」
「えっ…?」
呼び方に少し不服そうにしたが、言及することなく菫が腰掛けるベンチに、人が一人入る隙間を空けて座った。
「いつも通り着物に着替えようと思ったが、それではキミとの時間に遅れてしまう。そう思ってこのまま来てしまった」
「えっ…? わ、私なんかとの待ち合わせのために、ですか…?」
菫が驚いて目を丸くした。
しかし、司はそんな菫を不思議そうに見た。
「? 当然だろう。約束しておいて、時間に間に合わないという非礼なことをするわけがない」
「っ…そ、そう…ですか…」
本を抱く力が一層強くなった。
他の人と何ら変わらない扱いを受けるというのは、白崎家へ来て初めてのことだった。
「あっ…あの、高槻様…先日頂いたお薬、ありがとうございました。おかげさまで、よくなりました」
「そのようだな。もしかしたら、キミは遠慮して使わないのかもしれないと思っていたが、ちゃんと使ったようで安心した」
菫の報告に目を細める司。
彼の端正な顔立ちは、やはり見慣れない。
本の話をしている時でなければ、まともに顔を見ることさえできない。
「ところで、それ…どこまで読んだ?」
菫が胸に抱く本にちらりと視線を向けて尋ねると、菫はハッとした。
「あっ…! もう、最終章まで読みました。笠高先生、この本では怪奇なお話を書いていらっしゃいました。夜に読んでしまって、眠るのが怖くなってしまいました…ふふっ」
「…穏やかな感想ではないのに、楽しそうだな」
ふと溢した笑みに司は目を見開いた。
「やはり、笠高先生のお話は引き込まれて…あの、あと数頁で読み終えるので…その…」
「…あぁ。構わない」
菫が読みたそうにしているのを察すると、くすりと小さく笑って頷いた。
「あ、ありがとうございまーーっ!」
司の言葉に目を細め、抱えていた本から手を緩めた瞬間、何かが落ちた。
咄嗟にそれを受け止めようとしたら、鈍い痛みが指先に走った。
指先がぱっくりと割れ、血がじんわりと溢れてきた。
カタン、と音がする足元に目を向けると、落ちたものに目を見開いた。
落ちたのはーー小さく切られた刃だった。
痛みに顔を歪めると、司が前のめりで菫に近づいた。
「大丈夫か…!?」
血が滴る指先にぎょっとする司。
「い、いえ…これくらい…あっ…!」
痛いけれど、司に心配をかけまいと首を横に振った。
しかし、その動きによりポタリーー赤い雫が本に染みる。
その瞬間ーー。
「っ!」
ボワっと淡い桃色の炎が舞い上がった。
そして、どこからか鐘の音とサイレンが響き渡る。
『鬼血、出没! 三丁目、緑公園! 隊士はすぐ急行せよ!』
「えっ…な、何…?」
初めて聞く騒音に、菫は戸惑いから司の方を見た。
(きけつ…? 何…? 三丁目の緑公園って…ここ…!?)
すると、彼はーーこれまでに見たことのない恐ろしい顔をしていた。
「菫。動くな」
「えっ…っ!」
菫へ向ける眼光が鋭くなり、立ち上がると鍔に親指をかけて鞘から刀を抜けば、刃先を菫の喉元数センチの所まで近付けた。
「私の立場上、キミに尋ねなければならないことがある」
「えっ…?」
少しでも動けば喉元が切れてしまう。
緊張した空気の中、司は冷静な口調のまま尋ねた。
「鬼血を持ちながら、なぜ他の者と同じように働いている」
「き、けつ…あの、高槻様。きけつ、とは一体何なのでしょう…?」
「…何? 鬼血を知らない?」
大昔ーー人々に異能が開花する前、妖が住む妖界から、荒くれ者の鬼が平穏に暮らす人間界へ悪戯に舞い降りた。
鬼は、人の命などものともせず何千人もの命を楽しむように奪った。
その時、妖界のトップである妖帝が、無力な人間に力を授けた。
それが、異能。
荒くれ者の鬼から身を守るためだ。
力が人間全体に広がれば、いずれ人同士の争いを招く。
そう危惧した妖帝は、一部の人間にのみ力を授けた。
鬼は自身の危険を悟り、仲間を増やすために人間に血を分け与えた。
ただ、ほとんどの人間が血に適応がなく、命が尽きてしまった。
ごく稀に、鬼の血に適応しその者はーー異能と同等、もしくはそれ以上の力を蓄えた。
けれど、それは“鬼の味方”と人々から捉えられ、鬼が討伐された今もなおーー毛嫌いする人間は根絶しない。
そんな鬼の存在を知らないという菫に、司は心底驚いた。
「キミは、書見処で随分な扱いを受けているようだが、鬼の血を受け継いでいるからではないのか?」
過度な暴力を振るわれているというのは内情を話したがらない菫でも、見るだけで察しがついた。
しかし、その理由までは分からなかった。
司が見ている書見処での菫は、健気で慎ましく勤勉。
そして、本のこととなると目の輝きが違うというごく普通の看板娘にしか見えなかった。
鬼の血を持つことを知り、それが原因なんだと筋が一本通った気がしていた。
鬼の血を受け継ぐ者に対する偏見や差別は、長い時を経て未だになくなっていない。
白崎家のように、宮廷に出入りする家柄の中にそのような異質がいることを面白く思うわけがない。
そのため、それを疎ましく思って菫に辛く当たっていたのだろうーーと。
けれど、菫の反応からそうではないと察した。
「っ…違い、ます…わ、私が…次期当主と呼ばれながら、どこの馬の骨かも分からない男とかけおちをした女の娘、だからです…。しかも、私のせいで母は…っ」
知られたくなかった。
このような下衆な話を高貴な人が気分良く聞くわけがない。
刃を向けられても、どこか彼は軍人ではなくーー高槻司のままである気がした。
しかし、こんな話を聞かれてしまったらもうーー。
菫の胸は潰れかかった。
ぎゅっと着物を掴めば、まだ止まらない血がじわじわと着物に広がっていく。
彼に顔向けできず、視線を落として自ら喉元を刃に近づけた瞬間。
「顔を上げろ。菫」
「えっ…?」
司の言葉でピタリと動きが止まる。
彼が刀を鞘に戻すと、またベンチに腰掛けた。
「…調査のためとはいえ、申したくもないであろう身の上話をさせてしまい…悪かった」
「い…いえ…高槻様こそ、このような話……聞いていて、気分のよいものではありませんよね」
彼に必死に首を横に振って言葉をつなげる菫。
ドクドクとまだ止まらない血を見て、司は手帳を取り出して何かをすらすらと書く。
そして、あの日のように光が放出されると塗り薬と包帯が出てきた。
「手当をしよう。菫、手を」
手帳を戻すと、司が菫に手を差し出した。
これまで横目でしか見なかった彼の手は、大きくて角張っており、日頃から鍛錬に慣れているものと分かった。
「は…はい…」
緊張しながらも手を差し出せば、薬を患部に塗り慣れた手つきで包帯を巻いていく。
「…これで、血は大丈夫だ。それと、今日は無理な動きをするな」
「は、はい…」
司にこくりと頷けば、いつものように笑みを浮かべる彼。
しかし、菫の奥に見える黒い集団に彼の目は鋭くなった。
「…菫」
「はい…?」
「ここからはーー私の話に合わせろ」
言葉の意図が分からず、尋ねようとしたがその前にいくつもの足音が菫達に近付いた。
「高槻隊長。鬼血の確保、ご苦労様です」
あっという間にベンチの周りをぐるりと囲む隊士達。
一人が前に出ると、司に敬礼をした。
「では、その娘は我々が拘束します」
「待て」
隊士の一人が菫に近付いた。
同時に、司の腕が菫の前に伸び庇うような形になった。
「この者は、私の婚約者だ。隊士であろうと手荒に扱うことは許さない」
「っ…!?」
突然の申し出に声にならず、耳まで赤くして固まる菫。
周りの隊士達もどよめいた。
「高槻隊長に…婚約者…!?」
「しかも、鬼血の娘…」
「軍として、いいのか…!?」
(婚約…者…!? 一体、どういうこと…?)
菫の頭の中はいろんなことがぐるぐると巡った。
「は…? 高槻隊長のそのような話、聞いたことがございませんが…?」
「私は身の上話をするのが好きではない。部隊の違うお前達に、無駄話をすると思うか?」
「…失礼致しました。しかし、高槻隊長の婚約者とはいえ、鬼血と分かりながら野放しにできないのは、隊長である貴方なら分かりますよね?」
困惑する隊士達と違い、前に出た隊士だけは婚約者の存在に驚きながらも、落ち着きを取り戻して淡々と告げた。
「私も、彼女が鬼血ということは今し方知った。そのため、彼女の身元は特殊調査隊で預からせてもらう」
この日を境に、菫の運命が大きく動き始めることを――まだ誰も知らない。
そして――。
「鬼の血を持つ者を――また国防軍が確保したか」
水面下でとある波乱が動こうとしていた。

