世の中にはさまざまな音がある。
人によって好きな音はそれぞれだと思うけど、今の俺にとって一番好きな音はこれかもしれない。
「丹羽、じゃがいも切れた? こっちはにんじん終わったよ」
リズミカルに続いていた包丁の音が止まり、音と同じくらい大好きな声が俺の真横から来る。ん、と頷いて俺よりも低い位置から注がれる視線を受け止め、俺は笑う。
「俺ももう終わる。じゃ、やりましょうか」
「ですね。炒めましょうかね」
頷き合い、鍋に油を引く。切った野菜と肉を鍋に放り込み、炒める。そこに水を足し、沸騰させてあくを取る。しっかり具材に火を通したらルーを入れて掻き混ぜ、さらにじっくり煮込むだけ。
俺達の運命を大きく変えたメニュー、カレー。
それをあの洞窟探索から三年経ち大学二年生となった今、俺達は共に寝起きする部屋で、日常のワンシーンとして一緒に作っている。
ここに至るまでのごたごたに関しては正直あまり語りたくない。それくらい俺達は無鉄砲で考えなしの高校生として各方面から叩かれた。まあそれはそうだ。立ち入り禁止の洞窟に入り込んで遭難して、救助隊に助けられるなんて迷惑以外の何者でもない。
でもそのはた迷惑な行動が、俺達の気持ちや生活を大きく前進させたのは確かだった。
「あんたの覚悟、方向は間違ってたけど、よく、わかった」
俺をさんざん叱った後、母さんが言ってくれた言葉は今も忘れられない。
工藤は養父と離れて暮らすことが決まり、養護施設へ入所することとなった。父親のほうはそれを拒絶したそうだけど、工藤の意志は固く、父親も最後には折れた。
「学費の面倒は見させてくれって言われたから、それは甘えるつもり」
複雑そうに笑う工藤の心を俺はすべてわかってはやれない。それが歯がゆかったけど、工藤はその選択をしてから以前より笑うようになった。
氷が溶けるように学校でも笑顔が増え、工藤の周りには人が集まるようにもなって。
それは喜ばしいことだとは思う。思うけど、同じ大学に進学し、一緒に部屋を借りて暮らし始めてからも俺は相変わらずやきもきしている。
「昨日さ、吉田さんに訊かれた」
「なにを?」
鍋をおたまで掻き回しながら話しかける。工藤はシンクにもたれて素っ気ない横顔をさらしながらグラスに入れた水を飲んでいる。
窓から吹き込む風に、今は夜の色をした工藤の髪がさらっと、揺れた。
「“工藤くん彼女いるのかな、丹羽くん、知らない?”」
一言一句そのまま言う。工藤は言葉を返さず、グラスに唇を当てて黙っている。いらいらをぶつけるように俺はぐるぐると鍋を掻き混ぜる。
「工藤、吉田と同じ講義結構取ってんだろ。一緒にランチすることもあるって聞いた。そういうさあ思わせぶりなとこほんと……」
「いいわー……」
ぼそっと言われ、俺は固まる。は?! と目を尖らせると工藤はこっちを見上げ、うっすら笑った。Vネックから覗く鎖骨の陰影に目が行きそうになるのをこらえている俺に向かって言う。
「お前のその、嫉妬丸出しの顔。すごくいい、たまんない」
「おまっ……そういうの言うなってば! どんな顔したらいいかわかんなくなるだろうが!」
赤くなった俺の頬がするっと細い指でなぞられる。こっちを見上げるのは、ほんのりと熱を纏った淡い色彩の瞳。
「ごめんて。でも丹羽の感情剥き出しの顔見ると、めちゃくちゃほっとするんだもん」
「は?! なに言ってんだよ。ってかお前、吉田さんと……」
「七音」
いきなり呼ばれて俺は動きを止める。
名前呼びは初めてじゃない。でも普段はめったに呼んでくれない。
なのに、こいつは時々思い出したように呼んでくる。しかも、ここぞというタイミングで。
それに俺は、弱い。
「お前が嫌だって言うなら、吉田さん、穴に埋めてくるよ」
「……いや、あの、そこまででは」
相変わらず工藤は工藤だ。発言がいちいちサイコでぎょっとさせられる。
でもそんなこいつじゃなかったら俺は好きになっていない。
そもそもこいつがこの性格じゃなきゃ、夜の森で出会うこともなかったわけだから。
――アガルタに行こう。一緒に。
もう俺達がアガルタを目指すことはない。俺はこいつの隣という息ができる場所を見つけたし、工藤にはもう埋めてしまいたい人もいない。
それでも、あのころ工藤が俺にくれたアガルタへの誘いは、俺にとって永遠にお守りで、心の奥に燃え続ける篝火だ。
「吉田さんのことは埋めなくてもいいけど」
言いながら俺は、工藤の耳に唇を寄せる。
「もしも工藤にこの先、殺したいほど憎い人ができたら……俺が埋めるよ、その人」
囁くと工藤が瞳を見開いた。頬に当てられていた手がするっと滑り、首に絡められる。
「怖いなあ。でも俺にだけそういう悪い顔してくれる七音がすごく、好き」
耳の中にそっと落とされた声は、声でありながらもふわりと温かい熱になって俺を満たす。
「なあ」
「な、に?」
「名前呼び、どう? うれしい?」
息がかかるほど近い距離で言われて、俺は赤くなる。
「そんなの言わなくてもわかるじゃん」
「わかんないって。ちゃんと言ってくんないと」
……ほんと、こいつむかつく。
でもこのむかつくところも含めて俺はこいつに夢中だ。
「うれしい、から、もっと呼んでほしい」
ふうっと目の前で工藤の瞳が和む。首に絡んだ腕に力が込められ、くっと引き寄せられた。
「じゃあ俺のことも呼んでよ」
「はっ……? え、あの、なんで」
「なんでって。俺にばっかり呼ばせるのはずるいでしょうが」
ああ、絶対こいつ楽しんでやがる。本当に意地悪だ。でも。
「七音だけに呼ばれたいのに」
こんなふうに言われたら、拒否なんてできない。
「凪」
目の前の彼に似合いの綺麗な名前を舌に乗せると、工藤がふわっと笑った。はい、と丁寧な返事とともにぐっと引き寄せられ……唇に唇が重なる。
柔らかいその感触に俺は目を閉じる。
工藤と同じ色に染まった俺の髪がゆるやかに工藤の髪と重なる。
ここはふたりで暮らす部屋。カレーの香りもしていて、窓の外からは子ども達の声も聞こえてくる。
でもこいつとキスするといつも感じる。湿った土の香りを。肌を粟立てる冷気を。どこまでも続く夜の気配を。
多分、誰にも理解なんてされない。地の底でお互いの吐息で呼吸を繋ぐみたいな俺達だけの感覚が、作らずに笑える俺を作ってくれていること。
「カレー、食べよっか」
穴の底に垂らされたロープのような声が耳に注がれる。名残惜しく腕を解く俺に凪が笑う。
その笑顔は地の底で見た月に似ていた。
「どれくらい食う?」
「んー、たくさん」
無邪気に言われて俺も笑う。
皿にこんもりと盛られたカレーライスを机に並べ、俺と凪はテーブルを挟んでふたり、手を合わせる。そして目を見交わして唱えた。
「「いただきます」」
――了――
人によって好きな音はそれぞれだと思うけど、今の俺にとって一番好きな音はこれかもしれない。
「丹羽、じゃがいも切れた? こっちはにんじん終わったよ」
リズミカルに続いていた包丁の音が止まり、音と同じくらい大好きな声が俺の真横から来る。ん、と頷いて俺よりも低い位置から注がれる視線を受け止め、俺は笑う。
「俺ももう終わる。じゃ、やりましょうか」
「ですね。炒めましょうかね」
頷き合い、鍋に油を引く。切った野菜と肉を鍋に放り込み、炒める。そこに水を足し、沸騰させてあくを取る。しっかり具材に火を通したらルーを入れて掻き混ぜ、さらにじっくり煮込むだけ。
俺達の運命を大きく変えたメニュー、カレー。
それをあの洞窟探索から三年経ち大学二年生となった今、俺達は共に寝起きする部屋で、日常のワンシーンとして一緒に作っている。
ここに至るまでのごたごたに関しては正直あまり語りたくない。それくらい俺達は無鉄砲で考えなしの高校生として各方面から叩かれた。まあそれはそうだ。立ち入り禁止の洞窟に入り込んで遭難して、救助隊に助けられるなんて迷惑以外の何者でもない。
でもそのはた迷惑な行動が、俺達の気持ちや生活を大きく前進させたのは確かだった。
「あんたの覚悟、方向は間違ってたけど、よく、わかった」
俺をさんざん叱った後、母さんが言ってくれた言葉は今も忘れられない。
工藤は養父と離れて暮らすことが決まり、養護施設へ入所することとなった。父親のほうはそれを拒絶したそうだけど、工藤の意志は固く、父親も最後には折れた。
「学費の面倒は見させてくれって言われたから、それは甘えるつもり」
複雑そうに笑う工藤の心を俺はすべてわかってはやれない。それが歯がゆかったけど、工藤はその選択をしてから以前より笑うようになった。
氷が溶けるように学校でも笑顔が増え、工藤の周りには人が集まるようにもなって。
それは喜ばしいことだとは思う。思うけど、同じ大学に進学し、一緒に部屋を借りて暮らし始めてからも俺は相変わらずやきもきしている。
「昨日さ、吉田さんに訊かれた」
「なにを?」
鍋をおたまで掻き回しながら話しかける。工藤はシンクにもたれて素っ気ない横顔をさらしながらグラスに入れた水を飲んでいる。
窓から吹き込む風に、今は夜の色をした工藤の髪がさらっと、揺れた。
「“工藤くん彼女いるのかな、丹羽くん、知らない?”」
一言一句そのまま言う。工藤は言葉を返さず、グラスに唇を当てて黙っている。いらいらをぶつけるように俺はぐるぐると鍋を掻き混ぜる。
「工藤、吉田と同じ講義結構取ってんだろ。一緒にランチすることもあるって聞いた。そういうさあ思わせぶりなとこほんと……」
「いいわー……」
ぼそっと言われ、俺は固まる。は?! と目を尖らせると工藤はこっちを見上げ、うっすら笑った。Vネックから覗く鎖骨の陰影に目が行きそうになるのをこらえている俺に向かって言う。
「お前のその、嫉妬丸出しの顔。すごくいい、たまんない」
「おまっ……そういうの言うなってば! どんな顔したらいいかわかんなくなるだろうが!」
赤くなった俺の頬がするっと細い指でなぞられる。こっちを見上げるのは、ほんのりと熱を纏った淡い色彩の瞳。
「ごめんて。でも丹羽の感情剥き出しの顔見ると、めちゃくちゃほっとするんだもん」
「は?! なに言ってんだよ。ってかお前、吉田さんと……」
「七音」
いきなり呼ばれて俺は動きを止める。
名前呼びは初めてじゃない。でも普段はめったに呼んでくれない。
なのに、こいつは時々思い出したように呼んでくる。しかも、ここぞというタイミングで。
それに俺は、弱い。
「お前が嫌だって言うなら、吉田さん、穴に埋めてくるよ」
「……いや、あの、そこまででは」
相変わらず工藤は工藤だ。発言がいちいちサイコでぎょっとさせられる。
でもそんなこいつじゃなかったら俺は好きになっていない。
そもそもこいつがこの性格じゃなきゃ、夜の森で出会うこともなかったわけだから。
――アガルタに行こう。一緒に。
もう俺達がアガルタを目指すことはない。俺はこいつの隣という息ができる場所を見つけたし、工藤にはもう埋めてしまいたい人もいない。
それでも、あのころ工藤が俺にくれたアガルタへの誘いは、俺にとって永遠にお守りで、心の奥に燃え続ける篝火だ。
「吉田さんのことは埋めなくてもいいけど」
言いながら俺は、工藤の耳に唇を寄せる。
「もしも工藤にこの先、殺したいほど憎い人ができたら……俺が埋めるよ、その人」
囁くと工藤が瞳を見開いた。頬に当てられていた手がするっと滑り、首に絡められる。
「怖いなあ。でも俺にだけそういう悪い顔してくれる七音がすごく、好き」
耳の中にそっと落とされた声は、声でありながらもふわりと温かい熱になって俺を満たす。
「なあ」
「な、に?」
「名前呼び、どう? うれしい?」
息がかかるほど近い距離で言われて、俺は赤くなる。
「そんなの言わなくてもわかるじゃん」
「わかんないって。ちゃんと言ってくんないと」
……ほんと、こいつむかつく。
でもこのむかつくところも含めて俺はこいつに夢中だ。
「うれしい、から、もっと呼んでほしい」
ふうっと目の前で工藤の瞳が和む。首に絡んだ腕に力が込められ、くっと引き寄せられた。
「じゃあ俺のことも呼んでよ」
「はっ……? え、あの、なんで」
「なんでって。俺にばっかり呼ばせるのはずるいでしょうが」
ああ、絶対こいつ楽しんでやがる。本当に意地悪だ。でも。
「七音だけに呼ばれたいのに」
こんなふうに言われたら、拒否なんてできない。
「凪」
目の前の彼に似合いの綺麗な名前を舌に乗せると、工藤がふわっと笑った。はい、と丁寧な返事とともにぐっと引き寄せられ……唇に唇が重なる。
柔らかいその感触に俺は目を閉じる。
工藤と同じ色に染まった俺の髪がゆるやかに工藤の髪と重なる。
ここはふたりで暮らす部屋。カレーの香りもしていて、窓の外からは子ども達の声も聞こえてくる。
でもこいつとキスするといつも感じる。湿った土の香りを。肌を粟立てる冷気を。どこまでも続く夜の気配を。
多分、誰にも理解なんてされない。地の底でお互いの吐息で呼吸を繋ぐみたいな俺達だけの感覚が、作らずに笑える俺を作ってくれていること。
「カレー、食べよっか」
穴の底に垂らされたロープのような声が耳に注がれる。名残惜しく腕を解く俺に凪が笑う。
その笑顔は地の底で見た月に似ていた。
「どれくらい食う?」
「んー、たくさん」
無邪気に言われて俺も笑う。
皿にこんもりと盛られたカレーライスを机に並べ、俺と凪はテーブルを挟んでふたり、手を合わせる。そして目を見交わして唱えた。
「「いただきます」」
――了――



