地底人になりたいふたり~23時、チャラ王子と氷結王子は今日もシャベル片手に待ち合わせをしています~

 誰かが泣いている。
 ぴたぴたと頬に触れるのは温かい手。力任せじゃない。すがるみたいに俺の頬を包む手の感触に目を開け、最初に見えたのは薄暗い光に彩られた天使みたいな顔だった。
「あ……く、どう? よかっ、た、怪我は?」
 絞り出した声がしわがれている。どれだけ伸びてたんだ俺、と慌てたが、次の瞬間、思考が全部ふっとんだ。
 細い腕が横になった俺の首を掻き抱く。ぬるい雨が降ってくる、とぼんやり思ってから仰天した。
「え……! ちょ、なんで、泣いてんの」
 慌てて起き上がろうとして右腕に痛みを覚える。痛っ、と短く呻くと工藤の腕がするっと解け、胸に手が当てられ押し留められた。
「動かしちゃだめだ。折れてはいなさそうだけど、多分捻挫してる」
「えっ……あの、俺、なんで……」
「あそこから落ちた」
 言いながら工藤が懐中電灯の明かりを上へ向ける。暗くてよくは見えない。だがぬらぬらとした岩肌の先で岩が切れているようだ。傾斜のついた坂道の上にぽっかりと穴が開いて見える。
「うわ、ヘルメット被っててよかった……って、あの、工藤?!」
 呟いたと同時にまたぎゅっと抱きしめられ、俺は息を呑む。
「なに、どうしっ」
「死んじゃったらどうしようかと思った……」
 声に涙が絡みついている。聞いたことのない工藤の涙声に俺はパニックになる。
「ごめん、丹羽、本当に、ごめん……」
「お、大げさ。大体、工藤が謝ることな……」
「俺が行こうって言ったからだろ!」
「ちげーよ!」
 怒鳴りながら体を起こす。激しく右腕が痛んだけど、無視して俺は左手で工藤の肩を引っ掴む。
「工藤はアガルタ信じてなかったのに一緒に逃げる場所を地底にしようって思ってくれた。そんなの、うれしいしかないっての」
 言い切ると工藤が押し黙る。無言を埋めるみたいに工藤の頬には涙が落ち続けている。俺は動揺しながらそっと呼吸を整えた。
「なあ」
「……なに」
 声だけは素っ気ない……相変わらず泣いちゃってるけど。
「なんで、ここ来ようって言ってくれたの?」
「普通そういうのはもっと早く訊くべきものじゃないの」
 恥ずかしそうに目元を拭い、工藤が睫毛を下ろす。でも肩にかかった俺の手を払おうとはしない。そのことにほっとしながら俺はぼそぼそと言う。
「ごちゃごちゃ言ったら工藤の気が変わりそうで嫌だったから。俺、楽しかったんだもん。お前との探索」
「丹羽のそういうとこ、ほんと毒気抜かれる」
「毒、気?」
 ぽかんとした俺の背を工藤はそっと近くの壁にもたせかける。半径一メートルくらいが工藤の持つ懐中電灯の明かりで照らされているが、どうやらここが行き止まりらしく視界に映るのは黒々とした岩陰ばかりだ。
 でもその状況でありながらも工藤の顔に浮かんだのは苦笑いだった。
「だってそうだろ。同じように穴掘ってても、俺は母親のこといつか埋めてやるって殺意ばりばりなのに、お前は地底に行きたいからって理由でさ。そりゃあ、一緒にいたら毒気抜かれるって」
「……やっぱり本気だったの。殺したいってそれ」
「うん」
 工藤も壁に背中をもたせかける。肩と肩がそっと触れてじわっと体温が沁みた。
「でも殺したいと殺すはハードルの高さが全然違ってさあ。だから殺す代わりに穴掘ってた。掘ってるときだけはいろいろ忘れられたから」
「そ、か」
 やっぱりこいつの気持ちなんて全然わかってやれてなかった。俺は誰かを殺したいほど憎んだことはないから。
 俯く俺の傍らで、でもね、と声が落ちる。
「最近はわかんなくなってた。穴掘る意味」
「そう、なの?」
「ん」
 頷いて工藤がすうっとこっちを見る。
「丹羽のせいで」
「え、俺?」
「だって俺、丹羽となら行きたいって本気で思っちゃったからさ。アガルタ。だから……逃げるならここがいいって思った」
 懐中電灯の明かりに照らされ、ゆらっと瞳が揺れる。いつも遠目で見ていた目がすごく近い距離にあって俺は小さく息を呑む。
 ――俺も。俺だって、お前しかいらないよ。
 こう言われてからずっとなんでって訊きたかった。ただ、訊けなかった。
 俺がほしい答えと違ったら……泣いちゃいそうだから。
 でも、もう訊いていいかもしれない。いや、訊かなきゃ。
 だって俺達はもう、地底には行けない。
「あの、さ、教えて、ほしいんだけど」
 息を一度吸って、吐く。胸は怪我をしていないはずなのに、なんでだろう、すごく、痛い。
「工藤は俺のこと、どう思ってるの? その、好き、でいてくれたり、する?」
 問いかけたとたん、蜂蜜色の目が大きく見開かれた。数秒そのままでいてから、工藤は肘で軽く俺を突いてきた。
「それ今訊く? わかるだろ、普通」
「だってお前、いつも俺のことボロクソ言ってたし。好きになってもらえる要素が見当たらず……」
「チャラ王子にしては自信なさすぎだろ」
 呆れたように溜め息を零され、いらっとする。
「もう! チャラ王子って言うなって! お前には言われたくないの!」
「わかってる。ごめん。つい癖で」
 あっさりと謝られ、怒りはすぐに掻き消える。あ、いや、と口ごもる俺をちらっと流し見てから、工藤は膝を抱え、膝頭に顎を乗せた。
「俺、チャラ王子のお前、嫌いだった。俺と違って幸せそうに見えてさあ、すごくむかついた」
 わかってはいたけど、何度も言われるとこたえる。うなだれた俺を工藤が肘でまた突く。
「ちゃんと聞いてた? チャラ王子は嫌いだったって言ったんだって。丹羽のことがとは言ってない」
「あ、ああ、そっか。え、じゃあ、なんで、俺のこと……」
「学校で俺を見てたときのお前の顔が気になっちゃったから」
 好きって言っちゃったし、今更見てないなんて言えない。薄暗くてよかった、と思いながらも俺は頬を隠すように俯く。
「それどういう意味? 俺そんな変な顔してた?」
「してた」
「……まさかエロい顔じゃないよね?」
「あー、確かにエロい顔だったかも?」
 工藤の唇が意地悪く吊り上がる。なっ……と赤くなる俺の横で工藤は肩を震わせて笑ってから軽やかに、嘘だよ、と言った。
「すっごい真剣な顔。こいつはなんでそんな顔で俺を見てくるのかなって気になって仕方なかった。どっちが丹羽の本当の顔なのかなって思うようになって。そんなときに穴の中のお前、見つけた」
 そこからは、と呟いて工藤は膝に頬をつけたまますうっとこっちを見る。
「本当の丹羽をいっぱい知った。泥だらけになって地底目指す顔も。くだらないこと言って笑う顔も。それから」
 小さく息を吸い込み吐いた工藤の目が、ゆらりと揺らめく。
「誰かの代わりじゃなくて、俺だけを見てくれる、顔も。それ見てたら」
 心臓が苦しい。自分自身の心音にくらくらする俺の目の前で、工藤が笑った。
「一緒に地底に行ってもいいって思うくらい……好きって思っちゃった」
 ここは光なんてまるでない洞窟の中。俺達は洞窟の中でしか生きられない真洞穴性生物みたいなもの。でも、そんな闇を蠢く生きものには、そこでしか生きられないからこその美しさがあるのかもしれない。
 そう思わせるくらい、工藤の笑顔は眩しかった。
 目の前が曇って仕方ない。こらえようとしても無理だった。
 嗚咽を殺そうとした俺の頬を拭うのは温かい指。次いで細い腕が伸びてきてきゅっと頭が抱きしめられる。
「泣くなってば」
 工藤がそう囁いたときだった。地面に置いていた懐中電灯が、ちか、ちか、と点滅した。あ、と思ったと同時にすうっと光が失せていく。抱きしめてくれる腕に手を添わせ、きゅっと握ると、ごめん、と声がした。
「巻き込んで、ごめん」
「ちげーって!」
 ああ、やっぱりこいつは謝る。とっさに顔を上げ、俺は工藤を睨む。
「一緒に決めたんだろうが! 謝んなって!」
「でも俺が言い出したからこんな……」
 言いかけて工藤がふっと言葉を切る。そのまますうっと視線が俺から逸れる。どうした?と訊こうとして俺は異変に気付いた。
 懐中電灯の明かりがないのにこいつの顔が見える。光が、漏れてくる。どこから? 工藤に倣って光に向かって視線を上向けた俺の顔を、さらっと冷たい風が撫でた。
 俺達が転がり落ちたのは、洞窟の中でも天井が高い場所だと思っていた。けど分厚い岩で一面覆われていると思っていた頭上に切れ目があった。
 そこから半分だけ顔を出していたのは、まぎれもなく月。
 満月に少し足りないくらいの月がからかうように頭上から半分、覗いている。青白い光が撫でるように俺達の顔を照らすのがはっきりとわかった。
「ああもう……」
 見つけたのは俺達が探していた地底世界とは真逆のものだというのに、工藤の口から漏れたのは安堵めいた吐息だった。
「腹立つ。綺麗なんて、絶対思いたくないのに」
「わかる」
 じわっと涙で視界が霞んだ。
 逃げてきたのは自分達のくせに、地上のものを目にして泣くなんて。そう思うのに涙が出る。ふっと隣を見ると、工藤の頬にも雫が落ちていた。
 滑らかな頬を滑り落ちていくそれを見ているうちにたまらなくなった。
 ……こんなふうに泣かせたかったわけじゃないのに。
 悔しくて、俺はわざと乱暴な音を立ててリュックを探る。物音に引かれて工藤がこっちを向いた。
「どした?」
「わらび餅、食べよう」
「今?」
「お前なんて団子食うときにしか使わねーよ! って月に言ってやりたい」
「団子じゃねえし」
 ぷっと工藤が吹き出す。学校では絶対見せないその笑顔に胸の奥がふわっとぬくもった。
「ほら、工藤、食べて」
「ん」
 工藤の細い指が俺の渡した爪楊枝を受け取る。そっと触れた指先は優しい体温に満ちていた。
「美味い」
「美味いな」
 香ばしいきな粉の香りが鼻腔を満たす。ああ、地上の味だ、と思ったらまた涙がこみあげてきた。
 本当に馬鹿みたいだと思う。地上を嫌っていたっていうのに、なんでこんな気持ちになっているのだろう。
 でもそれを工藤に覚られるのは嫌だ。だってこいつは絶対またごめんと言う。そんなの聞きたくない。だからむぐむぐとわらび餅を噛みしめながら俯いた。涙を絶対に見せないように。わらび餅に夢中みたいに。
 その俺の頬に不意に手が伸びた。くいっと顔が上げさせられ、泣き顔がさらされる。
 顔を背けようとするけど工藤は手を離さず、細い指先がそうっと伸びて俺の涙を拭う。そうされて、ごめん、と思わず声が出そうになった。その俺の顔に顔がふっと近づいた。
「工……」
 声が、唇と唇の間で消えた。
 冷たい地の底とは相いれない温かくて柔らかいそれに唇を塞がれ、胸が熱くて息ができない。大きすぎる感情が行き場をなくして、むせび泣きになって漏れそうになる。しかも、震える俺の背中を宥めるみたいな手が優しく撫でてくれる。何度も何度も。
 こんな地の底でふたりだけで。本当は不安で。怖くて。泣き叫びたくて。でもこのキスが、手の温もりが俺に教えてくれる。
 こいつがここにいてくれることを。こいつが俺を好きって思ってくれていることを。
 絶望と幸福が混ざり合い、熱になって俺を満たす。気が付くと痛む右腕のことも忘れて両腕で工藤にしがみついていた。
 夢中でキスに身を任せていたのはどれくらいの時間だったろうか。すうっと唇を解いた工藤がふっと笑った。
「丹羽」
「……なに」
「帰ろっか」
 さらっと言われて心に空白が生まれた。驚いて目を見張る俺を見つめ、工藤はおもむろにスマホを差し出す。
 ……俺、こいつの待ち受け見るの、初めて。
 こんな絶望的な状況でそんなことにときめいている場合じゃない。咳払いして気持ちを落ち着けようとして俺は目を剥いた。
 スマホの画面上にあったのがカレーだったから。しかもこれ……。
「紺さんとこのカレー?」
 トーンが低くなってしまう。工藤は一度瞬きをしてから頷いた。
「よくわかったな。でも今見てほしいのそこじゃないから」
「いやいや! わかるから! これ待ち受けにするって工藤、もしかしてあの人のこと……」
「ちーがーう!」
 強い声に俺は固まる。月光とスマホからの青白い光に照らされながら、工藤が目を伏せる。はにかむようなその表情に、どきり、と胸が鳴った。
 そんな場合じゃないのに、めちゃくちゃ綺麗だって思ってしまっている俺に、工藤は囁く。
「これにしたのは、丹羽とのあの日がすごく楽しかったから。それだけ」
「あ……」
 馬鹿だ、俺は、本当に。
 こんなところでなんてことを言っちゃってるんだろ、俺。目頭を押さえ、ごめん、と呻いた俺の肩をとん、と工藤が突く。
「見てって」
 促されるまま目を上げる。そこで俺は固まった。
 スマホの上部から圏外の文字が消えていた。代わりに表示されていたのは、外界との細いロープみたいな、電波を示す……縦棒が二本。
「俺ね」
 工藤の指が細い電波を辿るように画面をなぞる。次いで月光を受けて輝く瞳がこっちに向けられた。
「丹羽にまたカレー、食べさせてあげたい」
 工藤、と名前を呼ぼうとする俺の唇をそうっと工藤が撫でる。ゆらっと蜂蜜色の瞳が、揺れた。
「だから、帰ろ?」
 はらっと落ちる涙とともに工藤が笑う。その涙に背中を押されるようにして、俺は腕を伸ばしていた。そして、細い工藤の肩にしがみつき、声を上げて泣きながら、うん、うん、と頷いた。