「『鮭ハラス定食』ですね。かしこまりました!」
元気よく注文を聞いてくれた麦島さん。この時間に定食メニューは無理かな、と一瞬不安だった気持ちが吹き飛んだ。
麦島さんのお父さんが料理を準備してくれている間、カウンターの向こうで仕事をする麦島さんの背中を眺めていた。ポラリス食品で新入社員の私は下っ端気分で働いていた。
だけど、私よりも年下でお店の後継という責任を背負う彼の背中は、細いけれど立派に見える。
「『鮭ハラス定食』、お待たせいたしました」
十五分ほど待って運ばれてきた定食に、思考を遮断される。
「鮭、でか」
つい口から出た言葉に、麦島さんがぷっと噴き出す。
「大きいですか? 僕はずっと北海道にいるから、普通こんなもんだと思ってました」
「大きいですよ、絶対!」
見たことのない大きさの焼き鮭の香ばしい香りに「わあ」と思わずため息が漏れる。
ぷりぷりの鮭の身の上には、真っ赤ないくらが載っている。その量がまた上品でちょうどよく、副菜のほうれん草のおひたしとだし巻き卵が彩りを豊かにしていた。
「いただきます!」
我慢できなくて、早速箸を握る。迷わず鮭ハラスをつつき、口に運んだ。
じゅわり。脂ののった身が、舌の上で溶ける。塩気はあるけれど甘い。こんなに甘くておいしい鮭は初めて食べたかもしれない。
今度はいくらと一緒に鮭を口に入れる。ぷちっとした食感と共に、濃厚ないくらの味が口の中に広がった。言わずもがな、鮭ハラスとの相性は抜群で震えるほどおいしい……!
「どうですか?」
気づかないうちに、麦島さんがじっと私を見つめていることに気づいた。恥ずかしさで顔が火照る。鮭といくらを飲み込んだあと、「おいしすぎます」と素直な感想を伝える。
「味がしっかりしていて、それでいてしつこさもなく……初めて、こんな味に出会えました」
まさに、疲れた身体に染み渡るごはん。
私の感想が具体的でおかしかったのか、麦島さんはふっとはにかんだあと、「なんだか照れますね」と言った。
「小さい居酒屋で、この先どれぐらいやっていけるか分からないですけど、お客様にそう言っていただけて、すごく勇気をもらいました」
麦島さんの言葉に、はたとお箸を持つ手を止める。
「そっか……お店を経営するって、そういうことですよね」
会社勤めで、あまり考えたことがなかった。
それなりに名の知れた大きな会社で働く私は、まだまだ見習いの身で、自ら会社を動かしているという感覚はない。
だけど、麦島さんは違う。
話を聞く限り、おそらく個人経営なのだろう。お店のやりくりは自分でやらなくちゃいけない。この先、麦島さんがどんなふうに舵を切るかによって、売上なんかも変わってくるだろう。
大きな会社で働けて、正直勝ち組だと思っていた私。でも、現実はうまくいかないことばかりで、今日もけちょんけちょんになった。
自分だけが惨めな思いをしているって思い込んでいたけれど……
人それぞれ、立ち向かわなくちゃいけないことはある。当たり前だけれど、今日ここに来るまで、毎日必死になるばかりで、気づけなかった。
お箸を持ち直し、副菜のだし巻き卵に手を伸ばす。口の中で出汁の味がやさしく広がる。舌触りも滑らかでおいしい。
鮭ハラスと白ごはんを一緒に口に入れた。温かいものが胃袋を満たしていく。
残りのご飯も、夢中になって食べた。不意に、光莉さんと宮沢さんの笑顔が浮かぶ。胸がツンとした。込み上げてくるいろんな感情に蓋をするように、ご飯を掻き込んでいく。
しょっぱい味がした。頬に濡れた感覚がした。
「お客様、大丈夫ですか……?」
麦島さんが慌てた様子で声をかけてきた。
「だ、大丈夫です、すみません」
何を謝っているのかも分からない。だけど、飲食店でのひとり飯で突然泣き出す女ほど痛い生き物はないのではないかと思って、顔が熱くなる。
「良かったらティッシュ、使ってください」
差し出されたティッシュをもらい、涙を拭った。
「ありがとうございます……」
タオルといい、ティッシュといい、今日は麦島さんに助けてもらってばかりだ。
「なんかすみません、せっかくのひとり時間を邪魔してしまったみたいで」
麦島さんは心底申し訳なさそうに謝ってきた。私は慌てて首を横に振る。
「違うんです。あんまりおいしくて、胸が詰まってしまって、つい……」
あながち嘘ではない。おいしいご飯を食べたことで、誰かとこの味を共有できたらもっと嬉しかったのに、と考えていた。
そしてその相手が光莉さんだったらどんなにいいだろって。
「今日って、仕事終わりですよね?」
不意に、麦島さんにそう聞かれた。
「はい、そうです。トラブルがあって、帰りが遅くなってしまって……。本来行く予定だったお店に行けなくて。でも、『北斗』さんに来られて良かったです」
出会いは本当に偶然だった。行きたいお店リストにもピックアップしていなかった海鮮居酒屋北斗。雨降りの夜に、傘になってくれた。
「そういう経緯だったんですね。どんな理由にせよ、お越しいただけて光栄です」
今度はにっこりと微笑んでくれた。笑った顔が、お父さんとそっくりだ。
「お客様、ご存知ですか? 北海道は東京や大阪と比べて緯度が高いので、北斗七星が沈まずに一年中見られるんですよ。北極星みたいに——と、これは観光客と何を話せばいいか困った時に披露する持ちネタなんですけどね」
ふふ、といたずらっ子の笑みを浮かべる。
「沈まずに、北極星の周りを動き続ける。僕はこの店でそうやって生き続けられたらいいなって、思ってるんです。まだ半端者ですけど、お客様がおいしいって言ってくれるその言葉で、動き続けられます」
元気よく注文を聞いてくれた麦島さん。この時間に定食メニューは無理かな、と一瞬不安だった気持ちが吹き飛んだ。
麦島さんのお父さんが料理を準備してくれている間、カウンターの向こうで仕事をする麦島さんの背中を眺めていた。ポラリス食品で新入社員の私は下っ端気分で働いていた。
だけど、私よりも年下でお店の後継という責任を背負う彼の背中は、細いけれど立派に見える。
「『鮭ハラス定食』、お待たせいたしました」
十五分ほど待って運ばれてきた定食に、思考を遮断される。
「鮭、でか」
つい口から出た言葉に、麦島さんがぷっと噴き出す。
「大きいですか? 僕はずっと北海道にいるから、普通こんなもんだと思ってました」
「大きいですよ、絶対!」
見たことのない大きさの焼き鮭の香ばしい香りに「わあ」と思わずため息が漏れる。
ぷりぷりの鮭の身の上には、真っ赤ないくらが載っている。その量がまた上品でちょうどよく、副菜のほうれん草のおひたしとだし巻き卵が彩りを豊かにしていた。
「いただきます!」
我慢できなくて、早速箸を握る。迷わず鮭ハラスをつつき、口に運んだ。
じゅわり。脂ののった身が、舌の上で溶ける。塩気はあるけれど甘い。こんなに甘くておいしい鮭は初めて食べたかもしれない。
今度はいくらと一緒に鮭を口に入れる。ぷちっとした食感と共に、濃厚ないくらの味が口の中に広がった。言わずもがな、鮭ハラスとの相性は抜群で震えるほどおいしい……!
「どうですか?」
気づかないうちに、麦島さんがじっと私を見つめていることに気づいた。恥ずかしさで顔が火照る。鮭といくらを飲み込んだあと、「おいしすぎます」と素直な感想を伝える。
「味がしっかりしていて、それでいてしつこさもなく……初めて、こんな味に出会えました」
まさに、疲れた身体に染み渡るごはん。
私の感想が具体的でおかしかったのか、麦島さんはふっとはにかんだあと、「なんだか照れますね」と言った。
「小さい居酒屋で、この先どれぐらいやっていけるか分からないですけど、お客様にそう言っていただけて、すごく勇気をもらいました」
麦島さんの言葉に、はたとお箸を持つ手を止める。
「そっか……お店を経営するって、そういうことですよね」
会社勤めで、あまり考えたことがなかった。
それなりに名の知れた大きな会社で働く私は、まだまだ見習いの身で、自ら会社を動かしているという感覚はない。
だけど、麦島さんは違う。
話を聞く限り、おそらく個人経営なのだろう。お店のやりくりは自分でやらなくちゃいけない。この先、麦島さんがどんなふうに舵を切るかによって、売上なんかも変わってくるだろう。
大きな会社で働けて、正直勝ち組だと思っていた私。でも、現実はうまくいかないことばかりで、今日もけちょんけちょんになった。
自分だけが惨めな思いをしているって思い込んでいたけれど……
人それぞれ、立ち向かわなくちゃいけないことはある。当たり前だけれど、今日ここに来るまで、毎日必死になるばかりで、気づけなかった。
お箸を持ち直し、副菜のだし巻き卵に手を伸ばす。口の中で出汁の味がやさしく広がる。舌触りも滑らかでおいしい。
鮭ハラスと白ごはんを一緒に口に入れた。温かいものが胃袋を満たしていく。
残りのご飯も、夢中になって食べた。不意に、光莉さんと宮沢さんの笑顔が浮かぶ。胸がツンとした。込み上げてくるいろんな感情に蓋をするように、ご飯を掻き込んでいく。
しょっぱい味がした。頬に濡れた感覚がした。
「お客様、大丈夫ですか……?」
麦島さんが慌てた様子で声をかけてきた。
「だ、大丈夫です、すみません」
何を謝っているのかも分からない。だけど、飲食店でのひとり飯で突然泣き出す女ほど痛い生き物はないのではないかと思って、顔が熱くなる。
「良かったらティッシュ、使ってください」
差し出されたティッシュをもらい、涙を拭った。
「ありがとうございます……」
タオルといい、ティッシュといい、今日は麦島さんに助けてもらってばかりだ。
「なんかすみません、せっかくのひとり時間を邪魔してしまったみたいで」
麦島さんは心底申し訳なさそうに謝ってきた。私は慌てて首を横に振る。
「違うんです。あんまりおいしくて、胸が詰まってしまって、つい……」
あながち嘘ではない。おいしいご飯を食べたことで、誰かとこの味を共有できたらもっと嬉しかったのに、と考えていた。
そしてその相手が光莉さんだったらどんなにいいだろって。
「今日って、仕事終わりですよね?」
不意に、麦島さんにそう聞かれた。
「はい、そうです。トラブルがあって、帰りが遅くなってしまって……。本来行く予定だったお店に行けなくて。でも、『北斗』さんに来られて良かったです」
出会いは本当に偶然だった。行きたいお店リストにもピックアップしていなかった海鮮居酒屋北斗。雨降りの夜に、傘になってくれた。
「そういう経緯だったんですね。どんな理由にせよ、お越しいただけて光栄です」
今度はにっこりと微笑んでくれた。笑った顔が、お父さんとそっくりだ。
「お客様、ご存知ですか? 北海道は東京や大阪と比べて緯度が高いので、北斗七星が沈まずに一年中見られるんですよ。北極星みたいに——と、これは観光客と何を話せばいいか困った時に披露する持ちネタなんですけどね」
ふふ、といたずらっ子の笑みを浮かべる。
「沈まずに、北極星の周りを動き続ける。僕はこの店でそうやって生き続けられたらいいなって、思ってるんです。まだ半端者ですけど、お客様がおいしいって言ってくれるその言葉で、動き続けられます」



