雨ふり鮭ハラス



 二十時半、スマホのマップを見ながら知らない土地をひとりで歩く。光莉さんと行くはずだったスープカレー屋さんは、札幌市内の大通りに面していた。
 ようやく目的のお店にたどり着いたのだが、お店の前でメニュー看板に記載された「L.O.20:30」という文字に絶望する。

「嘘でしょ……」

 スマホの時計を見る。20:36、ラストオーダーの時間を過ぎていた。
 きちんと確認していなかった自分が悪い。お店が21時半までやっているということで、まだ間に合うだろうと勝手に思っていた。ラストオーダーのことをすっかり忘れていたのだ。
 反射的に辺りを見回す。ご飯屋さんは他にもある。けれど、楽しみにしていたスープカレーすり食べられないことに、意気消沈して地面を見つめる。
 街はまだ明るい。街灯の下、行き交う人々が私を見ているような気がした。気のせいだと分かっているのに、視線を気にしてしまう。
 視界に映るアスファルトの地面に、ポタポタと水滴が落ちた。
 雨だ、と気づいて顔を上げる。空が暗くて今の今まで分からなかったが、雨雲が頭上まで押し寄せていた。

「傘、持ってきてないのに」

 天気予報を見ていなかった。雨脚は短い時間の中でどんどん強くなる。迷っている場合じゃない。どこか、入れそうなお店に行かなくちゃ……!
 濡れるのでスマホは鞄にしまい込み、左右に立ち並ぶお店を見ながら一人でも入れそうなお店を探した。
 開いているお店は居酒屋やBarがほとんどだった。時々現れるイタリアンのお店は、格式が高そうで気後れがする。チェーンの牛丼屋さんでもあればいいのに、と願うけれど、見当たらない。
 諦めてホテルでコンビニ弁当でも食べるか——と思った時、ぽつりと小さな灯りが漏れるご飯屋さんが目に入った。木造の一軒家のように、昔ながらの定食屋さんという感じで、玄関周りの素朴な感じは田舎の祖父母の家を思わせる。
 看板に視線を這わせると、「海鮮居酒屋 北斗」と書かれていた。

「居酒屋、か」

 これまでの人生で、ひとりで居酒屋に入った経験はない。お店に入るかどうか、入口の前で迷う。
 手書きのメニュー表が木製の扉に貼り付けられていた。写真はなく、達筆な筆文字が並んでいる。お造り、逸品もの、焼き魚、ご飯もの、といった定番居酒屋メニューのほかに、"定食メニュー"があった。
 視線が吸い寄せられる。

「この『鮭ハラス定食』、おいしそう……」

 脂がのった、ぷりぷりの身を想像する。北国に来たからには、一度は海鮮を嗜みたいと思っていた。
「鮭ハラス定食」はメインの鮭ハラスと白ごはん、お味噌汁、副菜がついたセットのようだ。
 自然と口の中にあふれてくる唾液を呑み込んで、メニューに誘われるようにしてお店の扉を開けた。

「いらっしゃいませ!」

 若い男性の声が響いた。お店の奥からやってきたその人は、まだ十代にも見える青年だった。胸に「麦島(むぎしま)」と名札がついている。
麦島さんは、雨に濡れた私を見て驚いたのだろう。目を丸くして、「少々お待ちください」と一度中へと引っ込んだ。まもなくして戻ってきた彼の手にはフェイスタオルが握られていた。

「良かったらこれ、どうぞ」

 少しぎこちない敬語でタオルを手渡してくれた。

「ありがとうございます」

  正直、雨に濡れて困っていたのでとても助かった。
 日に焼けた顔をした青年に見守られながら、髪の毛や腕をタオルで拭いた。そのまま返すのもどうかと思ったが、麦島さんは自然と
「お預かりしますね」とタオルを受け取ってくれた。

「お客様は一名様でしょうか?」

「はい、そうです」

「かしこまりました。あちらのお席までご案内します」

 麦島さんのまっすぐな背中を眺めながら、案内されたカウンター席へと座る。 
 ひとり居酒屋で、カウンター席か。
 かなり緊張する。カウンターの前では、麦島さんと、親子ほど離れていそうなおじさんが働いていた。おじさんのほうは調理担当らしいが、お客さんと談笑しており楽しげだ。
 私のほかに、お客さんはもうひとりだけ。

「何飲まれますか?」

 カウンターの前で、麦島さんに聞かれる。居酒屋に入ったというのにドリンクのことをまだ何も考えていなかった。
 ふと彼の後ろに視線を移すと、透明ガラスの冷蔵庫に並んだサッポロビールが目に入った。他にもいくつか種類があるようだが、せっかく札幌に来たのだし、いいかもしれない。

「じゃあ、サッポロビールで」

「かしこまりました!」

 爽やかに答えてくれて、ほっとした。すぐにジョッキに注がれたビールが運ばれてくる。

「お待たせしました。サッポロビールです」

「ありがとうございます」

 きめ細やかな泡が立つ生ビールを眺める。ひとくち口に含むと、麦の旨味とほどよい苦味が広がる。ごくりと飲み込んだ瞬間に、疲れた身体が一気に冷えた。

「おいしい」

 親しみのある味であるはずなのに、寂しさに心がさらされていた雨降りの夜には深く染み渡る。

「はは、嬉しいです。僕はまだ飲めないのですが、一緒に飲んでいるような気分になれますね」

 カウンターに戻っていた麦島さんがそう答えて、素直に驚く。

「もしかして、未成年ですか? 高校生とか?」

「いや、成人はしてますよ。十九なんです。この店の店主がうちの父親で」

 そう言いながら、麦島さんはもう一人の店員であるおじさんのほうをちらりと見た。麦島さんと同じぐらい日焼けした肌と、筋肉で太くなった逞しい腕、笑うと際立つ白い歯が特徴的な男性だ。

「そうなんですね。じゃあ、もしかして麦島さんって跡取り息子さん、とか?」

「そうなりますね」

 麦島さんは、照れくささと緊張が滲んだ複雑な表情を浮かべてはにかんだ。

「あ、そういえばお客様。フードのご注文は決まりましたか?」

 思い出したかのようにそう聞かれて、私もそうだったとメニュー表を指差した。

「この、『鮭ハラス定食』をお願いします」