初めて過ごした能見家での夜。
身に染み付いた生活習慣というのは、急には変えられないもので、夜が明けて明るくなり始めた頃、紬は目が覚めた。
(ここはーーそうだ)
朝日の差し込みで目が覚める――そんな気持ちの良い朝を迎えたのは、生まれて初めてだった。
布団から上半身を起こして伸びをしてから起き上がり、癖のように布団を畳んだ。
「私…どうしたらいいんだろう…」
ぼそりと呟き、戸惑いながら廊下に出ればばったり高園に出会った。
「奥様、おはようございます。随分とお早いですね…?」
使用人も少し前に起きたばかりで、似たような時間に起きている紬に驚く高園。
「目が覚めてしまって…あの、私…どうしたらよろしいのでしょう…?」
「えっ…? え、えぇっと…ご飯ができるまで寛がれるとか、ですか…?」
能見家に来た女性で、初めての事に高園も戸惑った。
「そう…ですか。あの、高園さんは何を…?」
「私は、旦那様と奥様の朝食を作りに台所へ参ります。あっ、お座敷へご案内しますね?」
場所がわからないのだろうと思い、提案したが紬は首を横に振った。
「あの…私もお手伝い、いたします」
紬の言葉に、目を丸くする高園。
「あっ…いえ…さすがにそれは…」
言葉を濁す高園。
しかし、紬は引き下がらなかった。
「いえ…昨日、高園さんにあれだけ良くしていただけたのに、何もしないなんて…だから、お願いできませんか…?」
「う…分かりました。でも、シマさんに怒られたら…助けてくださいね…!?」
紬の言葉に渋々頷き、保険をかける高園。
「はい。もちろんです」
くすりと小さく笑い、高園の後に続いて台所へ向かった。
「お…おはようございまーす」
「おはよう。高園、遅いじゃないの」
「どうせ寝坊でしょう。何やってるのよ〜」
緊張しながら広い台所へ行き、他の使用人に挨拶をする高園。
そして、冗談を言い合って笑う使用人たち。
その光景を見ているだけで、紬の胸はほんのり温かくなった。
「ーーおはようございます」
続いて、紬も挨拶をした。
すると、使用人達の手がピタリと止まる。
声だけだと、知らない声の使用人だと思ったからだ。
紬の方を見れば、見ながら目を丸くした。
「おっ…奥様…!? お、おはようございます…」
「随分とお早いのですね…あの、朝食はすぐご用意いたしますからっ…」
「高園、何してるのよ。早く奥様をお座敷へご案内して…!」
高園への態度とは一変、腫れ物に触れるような対応に変わった。
「あっ、いえ違うんです…ね? 奥様…?」
紬に不安そうに尋ねる高園。
こくりと頷いて、紬が口を開いた。
「はい…私がお手伝いしたくて、高園さんに無理を言って来たのです」
恐る恐る伝えれば、使用人達はお互いに顔を見合わせた。
「えっ…奥様がお手伝いだなんて…」
「怪我をなさるかもしれないし…」
「お召し物が汚れてしまうかもしれないわ…」
誰も、肯定的に捉えようとはしない。
そんな彼女達に、紬は胸を締め付けられる思いだった。
(良かれと思って申し出たけれどーーご迷惑だったんだわ。私…どうして…)
申し訳なさからすぐに口を開いた。
「申し訳ありませんっ。私ーー」
「お前達。味噌汁は沸騰させてはいけないのに、目を離して何をしているのです。旦那様や奥様に、何を食べさせる気ですか」
言葉を続けようとしたが、勝手口から入って来たシマが吹きこぼれる鍋を見て言った。
「シ、シマさん…あの…」
使用人の一人がおずおずと一連の事を伝えると、シマは目を見開いた。
「…何ですって」
シン、としている台所でシマの声だけが渡った。
そして、紬を見つめるシマ。
その剣幕に、ごくりと生唾を飲み込む紬。
「お前達! 奥様のご要望にすぐに応えないとは何事です! 割烹着を用意なさい。そして、奥様が動きやすいようすぐに動線を確保なさい」
「は…はいっ!」
パンパン!と手を叩いてテキパキと指示を与えるシマ。
ぽかん、としながらも使用人達は紬に割烹着を着せて道を開けた。
「あ、あの…」
「奥様。使用人共が失礼致しました。さて…何をお手伝いいただきましょう」
丁寧に深く頭を下げるシマ。
紬に尋ねれば、もじもじとしながら答える紬。
「えっと…みなさんのお邪魔にならないようにできたら…と」
「左様でございますか…それでは、お皿の配膳はいかがですか? 手が切れることも、水で荒れる事もございません」
シマの采配に、使用人達は何度も頷いた。
「あの…そこまでお気遣い頂かなくても…」
「いいえ。それはなりません。これは、旦那様からの命です。いくら、奥様から頼まれてもこのシマーー旦那様からの命は逆らえません」
「旦那様の…?」
シマの言葉に、小首を傾げた。
「えぇ。奥様は、無効といって異能を全て跳ね返す力をお持ちです。逆に、異能と関係ない物理的な怪我を負われる危険があります。そしてーーその怪我は、異能で治せない。治療に時間を有するのです」
シマの説明で頷くしかなかった。
そこまで自分のことを考えてくれていたのだと思うと、これ以上「大丈夫です」とは言えなかった。
「おはよう」
「おはようございます。旦那様」
そして、一時間ほど経った頃。
隆臣が起きて挨拶をすると、使用人達が次々に挨拶を返した。
座敷で二人分用意された食事のうちの一つの前に座れば違和感に目を光らせた。
「…シマ」
「はい。旦那様」
使用人の中に一人、作業する紬を見つけるとシマを呼びつけた。
「紬に何をさせている」
目を鋭くさせて尋ねるが、シマも怯まない。
「申し訳ありません。これは奥様からのお申し出で…使用人風情が断ることはできません」
「…そうか。紬」
次に紬を呼べば、シマは元の作業に戻った。
「はい…?」
返事をすれば、隆臣の隣をトントンと叩かれその場に正座した。
「ここは、あの家ではない。無理に仕事をしなくていい」
「い…いえ。私が、無理を言って一緒にさせてもらっています」
「…そうか。もう配膳もほとんど終わっている。共に温かいうちに頂こう」
「わ、私も…ですか?」
隆臣の言葉を聞けば、後ろから使用人がそっと割烹着の紐をほどいた。
しかし、その言葉にきょとんと不思議そうにする紬。
「当たり前だ。夫婦は共に食事をとるだろう?」
「夫婦…」
まだ、隆臣の言葉に慣れず夫婦と聞けばポッと頬を赤らめる。
紬にとって、主人と共に食事をとるというのは違和感しかなかった。
「ほら。頂くぞ」
「はいっ…」
こくりと頷いて、もう一つの食事の前に座ると紬の顔から笑みが溢れた。
藤代家では、使用人が食べるのは主人が食べ切った後。
更に、使用人達の中でも酷い扱いを受けていた紬は冷え切った残飯のようなご飯で腹を満たしていた。
温かく、食材がツヤツヤとしているご飯を食べるのは初めてだった。
食欲をそそる香りが広がり、胸の中まで幸せで満たされていく。
「いただきます」
「い…いただきます」
隆臣に続いて手を合わせた。
隆臣が一口運べば、その後紬も味噌汁を口に含み目を丸くした。
「…美味しい」
ぼそりと呟けば、使用人の一人が「ふふっ」と笑みをこぼした。
「ありがとうございます。奥様」
紬の言葉に、使用人達はいつも以上に穏やかに仕事を進めた。
共に食事の準備をしたことで、紬の人となりを知り使用人達は改めて紬に良い印象を抱いた。
「ところで紬」
「はい…?」
食事を進めていると、隆臣に声をかけられ首を傾げた。
「どこかへ出かける時は、必ず高園を連れて行くように」
「高園さんを…? でも、ご迷惑になりませんか…?」
「迷惑なものか。その為の付き人だ」
自分の都合に合わせるのが申し訳なくて、おずおずと答えた。
しかし、隆臣はそれらを否定した。
「昨日自分の力を知ったばかりだから、知らないかもしれないが紬には異能を使った守りを施せない」
隆臣の言葉に、ハッとした。
『異能と関係ない物理的な怪我を負われる危険があります。そしてーーその怪我は、異能で治せない。治療に時間を有するのです』
朝食作りの手伝いをする時、シマから言われた事を思い出した。
「だが、高園は例外だ。アイツの力はーー」
「旦那様」
隆臣の言葉を、茶を持って来た高園自身が遮った。
「今はその話、よろしいではありませんか。その時がくればーーで」
「…それもそうだな。今、紬に話す事もないな」
高園の言葉に、こくりと頷けばそれ以上言及することはなかった。
(旦那様…高園さん…何を言いかけたのかしら)
現状を掴めない紬は一人、ぼんやりとそんな事を考えながら思っていた。
ここまで自分を気にかけ、守ろうとしてくれる隆臣のことが、紬にはまだ不思議でならなかった。

